あの敗戦が教えてくれた、勝ちっぱなしの人生なんてない。元高校球児たちが語る甲子園は私の先生でした

東邦・バンビ坂本 秋田経法大附属・中川申也 横浜商業・三浦将明 沖縄水産・大野倫ほか
週刊現代 プロフィール

「水野には0—3で完封負け。あんなボール、今まで見たことがなかった。でもこの負けで僕らは変わりました。うちのメンバーはみんな『サボりの天才』で、誰一人まじめに練習をする奴はいなかった。それが努力をするようになった。雨で練習が休みになっても、みんな隠れてバッティング練習をしていましたね」

しかし夏の決勝では、桑田真澄・清原和博ら当時1年生だったKKコンビのPL学園が立ちはだかった。再び0—3の完封負け。どんなに努力を重ねても、ときには敵わないことがある。「怪物」に敗れ続けた三浦ほど、それを思い知らされた選手はいないだろう。

高校卒業後、ドラフト3位で中日に入団し、'90年に引退。大手運送会社に勤務した後、現在は愛知県のスポーツ用品店に勤めている。

「甲子園の決勝の舞台に2度も立った。それはいまとなっては良い思い出です。ただ、そう考えられるようになったのは、30歳を過ぎてからです。プロをクビになって、周りに人が全然いなくなって、『俺は何でこうなった?』と、人生を見つめなおす時間ができた。そのとき高校時代を振り返り、仲間と共に戦った経験が支えになったんです」

当時は史上最強と呼ばれ、三浦の「Y校」を一度は叩きのめした池田高校も、同じ夏にやはり「KKコンビ」によって敗戦の苦さを味わった。

'82年の夏に甲子園を制した池田は、'83年の春も連続優勝していた。当時セカンドを守っていた金山光男(48歳)が振り返る。

「春からの半年間は、異様でした。普段の練習から、テレビ局が3局くらい来て、僕らのドキュメンタリーのためにカメラを回しているんです。水野を観るために観光バスが停まっていることもあった。たかだか18歳のガキが、大人と接して、見られて……。調子に乗るなというのは無理です。蔦(文也)監督は事あるごとに声をかけ、僕らが勘違いしないようにしてくださいましたが、当時は気づくことができなかった」

そんな状況で優勝できるほど、甲子園は甘くはなかった。

「KKのことは、正直舐めていました。所詮1年だろ、と。油断、驕り、慢心、すべてありましたね。しかしいざ試合が始まると、水野が4点を先制された。焦りました。それまで追いかける展開の試合をしたことがありませんでしたから。自慢の打線は淡白な攻めを繰り返し、あっさりと負けてしまいました」

まさかの敗北に、呆然とする池田ナイン。しかし試合後、蔦監督が語ったのは、「この子らの人生のためには負けて良かった。それも水野が打たれる形で……」という言葉だった。

現在、都内でシステムエンジニアとして働く金山は、いまになって、その言葉の意味がわかるという。