あの敗戦が教えてくれた、勝ちっぱなしの人生なんてない。元高校球児たちが語る甲子園は私の先生でした

東邦・バンビ坂本 秋田経法大附属・中川申也 横浜商業・三浦将明 沖縄水産・大野倫ほか
週刊現代 プロフィール

「最後は7点差をつけられましたが、その過程で競った場面があったはず。そのとき、なぜ踏ん張れなかったのか。どこかで出場したことに満足していた。何としても勝ちたい、その気持ちが足りなかった」

大学まで野球を続けた森田は、卒業後、東京の企業に就職。しかしプロへの夢を捨てきれず、社会人チームの練習に参加し、プロテストを受けた。

「結果は不合格でしたが、甲子園のときのように、悔いは残したくなかったんです。現在は母校・文徳で教鞭を取りながら、軟式野球部の部長をしています。『全国に出よう』ではなく、『全国で一度は勝とう』、そう指導しています」

上には上がいた

後悔をバネにした球児たちがいる一方で、甲子園で限界を超えるまで戦い、敗れていった選手もいる。悲劇の準優勝投手、沖縄水産の大野倫(41歳)を覚えているだろうか。

'91年の夏、大阪桐蔭との決勝は、4連投となった。大会前から痛めていた肘は、すでに壊れていた。栽弘義監督から毎日マッサージを受け、痛み止めを打ちながら、大野はマウンドに上がった。結果は8—13。大敗だった。

「決勝はただ球を投げているだけで、ピッチャーとしての体はなしていませんでした。いまでも、あの決勝を万全の状態で投げていたら、と思うことはありますよ。でもあのときは、甲子園という人生の大一番で燃え尽きたい、そう思っていた。私は自分の意志でマウンドに立ったんです」

大野は大学で野手に転向し、'95年に巨人へドラフト5位で入団。ダイエーに移籍後、'02年に引退した。

「いまは九州共立大学沖縄事務所長をしています。そのほかに、ボーイズリーグの指導者もしている。自分が故障したこともあり、子供には連投はさせないようにしています。

ただ僕は、『無意味に思える鍛錬に意味がある』とも信じている。厳しい状況を共有して初めて、仲間と信頼関係が生まれるんです。僕はそのことを高校で知った。それを子供たちにどう伝えていくか。試行錯誤の連続です」

古豪横浜商業のエースだった三浦将明(48歳)は、何度も甲子園で勝ち進みながら、その度に時代を代表する「怪物」たちに敗れてきたという、稀有な経験の持ち主だ。

三浦は'83年の春と夏、連続で決勝まで勝ち上がった。1度目の決勝は、水野雄仁率いる池田高校に優勝の夢を阻まれた。