第92回 本田宗一郎(その三)経営不振のときに、会社の復活を願って人生を賭けた蕩尽。その中身とは---

福田 和也

現地のマスコミはこぞって「東洋の奇跡」と書き立てた。
4億5000万の投資によって整えられた設備、「レースに出場したい」という宗一郎の闘志、エンジン開発への熱意なしには果たせなかった「奇跡」である。

金に糸目をつけずあらゆる媒体に広告を打った

マン島レースに初めて出場した年に、ホンダはロサンゼルスに進出した。
宗一郎は、社員を日本から連れていく事をせず、現地の人間を採用した。
社内では、アメリカ人の給与は、非常に高いので払いきれないのではないか、という意見もあったが、宗一郎は押し切った。
アメリカ並みの給料を払えない、みみっちい商いだったら、やっても仕方がない、という料簡だった。

S500'63年に発売されたこのオープンスポーツカーで二輪を得意としていたホンダは四輪づくりへ本格参入した

さらに、アメリカ人に喜んでもらえるような商売をしなければ、アメリカでは到底、通用しないだろうという考えもあった。
満州の例を見れば解る事だ。日本人が行った当初はごたごたしたけれど、満州の人間に、日本並みの給料を払っていくうちに、現地の人たちは自然と日本人を受け入れてくれたのだった。

このアメリカ進出を機に、ホンダの海外展開は加速度的に世界各国に広がっていく。

昭和35年には東京駅の目の前に本社ビルができ、資本金は100億円近くなり、本田技研は大企業になった。
世間的にみれば、押しも押されもせぬ成功者となった宗一郎だったが、内心では、大きな葛藤があった。

昭和30年代に入ると、トヨタや日産、いすゞの戦前派に続き、三菱重工、富士重工、東洋工業が、二輪を飛び越えていきなり自動車業界に参入した。
二輪界のチャンピオンとなったホンダはいよいよ最終ターゲットである四輪に向けて走り始める。

38年8月に、軽トラックT360を、十月にはスポーツカーS500を発売した。
特にS500のデビューには、営業スタッフが知恵を絞り、大キャンペーンを実施した。
金に糸目をつけず、あらゆる媒体に大きな広告を打ったのだ。
なかでも、「ホンダスポーツカーS500価格当てクイズ」は、豪華賞品の魅力もあり、応募ハガキは、570万通にも達したという。

しかし、ホンダが四輪業界に地位を確立したのは、42年3月に発売した軽四輪N360の大ヒットによる。
この車により、ホンダは軽自動車の大ブームを引き起こした。

『週刊現代』2014年9月13日号より

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