第89回 パブロ・ピカソ(その四)大戦で抑圧に対するシンボルになった。共産党に入党し、拍手喝采されて---

福田 和也

購入して移り住んだ古城に埋葬された

生きている芸術家のなかで、ピカソが美学的な問題について話し合うのを楽しみにしていたのは、アルベルト・ジャコメッティだった。
一つにはジャコメッティが造形作家であって、純粋に美学の問題だけを話題にしなかったからだ。そのうえ、彼には媚びやへつらいが、一切なかった。

二人はしばしば行き来し、近くのカフェでポルノ雑誌に見入ったりした。
ピカソは、素直な時には、ジャコメッティが、彫刻界の『新しい息吹』を、代表していることを認めた。
けれど、確たる理由もなく、捻くれた態度を取ることもあった。

ジャコメッティのアトリエを訪れた時、ピカソは、ジャコメッティの作品を褒めさえすれば、収集家が彼の作品を間違いなく買い、彼の暮らしに余裕が出来る事を知りながら、そうはしなかった。

「ピカソには驚嘆する。怪物を見た時のような驚きだ」と、ジャコメッティは述懐した。

ヴォーヴナルグ城 1959年に、ピカソは南仏のサント・ヴィクトワール山を購入、そのふもとにある古城で数年ほど暮らした

1954年11月3日。
ピカソはアンリ・マティスが亡くなったという知らせを受けた。
ピカソは、電話に出ようとせず、葬儀にも参列しなかった。マティスについての思い出を、ピカソは切り捨てたのである。

その後も、ピカソは長く生きた。
そして1972年、最後の自画像が描かれた。
1973年4月8日、未明。
晩年の妻ジャクリーヌは、パリにいるピカソのかかりつけの心臓医に、電話をかけた。
ピカソは、ベージュのパジャマを着て、枕を積み上げ、苦しそうによりかかっていた。

心臓医は、すぐに事態を把握した。
呼吸困難が起き、心拍も弱くなった。

4月8日、午後。
ピカソの訃報が、世界中に伝えられた。
ノートル・ダム・ド・ヴィと呼ばれた屋敷の中で、ピカソの遺体は、刺繍を施された黒いケープに包まれていた。
2日後、霊柩車が、助手席に黒いケープをつけた未亡人を乗せて出発した。彼女はかつて暮らした古城ヴォーヴナルグに夫を埋葬することにした。

墓掘人とヴォーヴナルグの市議会の代表が石段の前で待っていた。
石ころ交じりの地面には、ツルハシは、歯が立たなかった。音もなく降りつもる雪のなかに、突然、空気ドリルの轟音が響いた。

『週刊現代』2014年8月16・23日号より

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