櫻井秀勲 第2回 「『金額はお好きなように』と差し出された小切手事件」

島地 勝彦 プロフィール

櫻井 なにがいいたいかというと、だからわたしは親指の短い女性ばかりを遊び相手に選んできたんです。そういう女性のほうが動物的な感覚が残っていて口説きやすいんですよ。まあ、そのために手相を勉強したみたいなものです。しかも五味康祐直伝です。

シマジ そうだったんですか。五味さんとはどの雑誌のときにお会いになられたんですか?

櫻井 わたしは昭和28年に光文社の『面白倶楽部』という雑誌に配属されました。当時の文芸誌というのは倶楽部雑誌しかありませんでした。そこで五味康祐と出会ったんです。

シマジ 講談社には『少年倶楽部』という立派な雑誌がありましたね。

櫻井 その『少年倶楽部』の初代編集長が加藤謙一でして、わたしが講談社に入社する際の保証人だったんですね。加藤さんの息子さんが講談社の女性と結婚されていたんですが、その女性はトルストイの翻訳家として有名な原久一郎のお嬢さんで、彼女の弟の原卓也は外語大でわたしの同期だった。そんな縁で加藤さんと原先生がわたしのバックについていましたから、そりゃあ受かりますよね。

シマジ わたしは常々、人生は運と縁とセンスで決まるといっています。櫻井さんにはそのどれもが備わっているし、才能だってちゃんと見抜かれていたと思いますよ。文章を書かせたら天下一品だし、抜群の行動力があり、カンもいい。

櫻井 戦後、主婦の友社と同じように講談社も、マッカーサーから解体を命じられました。でも先輩たちは解体を免れるために知恵を絞り、業務を分散することを考えたんですね。そこで『倶楽部』関係の雑誌を持っていた講談社は、新しく光文社を立ち上げて『面白倶楽部』を、さらに世界社という出版社を作って『富士』という雑誌を持っていったのです。世界社の社長は直木三十五の妹の旦那でした。でも世界社はうまくいかなかった。

シマジ そうだったんですか。それは知りませんでした。