「上書き保存」で、記憶を編集する
ニューロンの科学が示唆するPTSDの治療

ダニエラ・シラーの独創的な発想は、(わたしなりに噛み砕いて言うと)「もしも記憶が経験によって生成されるものなら、編集のあり方もまた、経験によりコントロールできるのではないか?」ということでした。それまでは、記憶に関与するタンパク質の生成を抑えこむような物質を扁桃核に注入するなどして、実験が行われていたのですが(動物実験のみです)、彼女は、そのような薬品によらず、経験だけで、編集された記憶の「上書き保存」が可能になるのではないかと思ったのです。

そこで彼女は、こんな実験をしてみました。

まず、さきほど説明した、青い四角形と電気ショックの、単純なパブロフ型条件付けをやります。そしてその翌日に(記憶の固定に必要だとされる時間を与えるわけです)、消去訓練を行います。つまり、ショックなしに、青い四角形を被験者に見せ続けるのです。

その後、グループを三つに分けます。第一のグループには、一度、青色の四角形を見せます。これは記述的記憶と恐怖記憶の「両方を」リコールすることにほかなりません。ハードドライブから記憶を編集用に呼び出すわけですね。その上で、それから10分以内に、消去訓練を開始するのです。第二のグループは、リコール(呼び出し)から六時間経過後に、消去訓練を開始します。第三のグループは、リコールせず、消去訓練のみを行います。 

その結果、第一のグループのみが、恐怖記憶が消去されたのです。10分以内に消去訓練を開始したことにより、記憶が「上書き保存」され、恐怖記憶が抜け落ちたことをほのめかしています。

実はこの成果は、すでに薬物中毒などに応用されて、一定の成果を上げているようです。その場合もやはり、10分というのが鍵になっています。薬物中毒の場合、恐怖記憶ではなく、強い快楽記憶が呼びさまされてしまいます。そうなるともういてもたってもいられず、仕事の関係者にどれだけ迷惑をかけようと、家庭をボロボロにしようと、借金を重ねようと、薬を手に入れずにはいられなくくなります。でも、快楽記憶が消去されてしまうと、「昔はオレもやんちゃやったよなぁ」という記述的記憶だけですんでしまうわけですね。

シラーの成果が、PTSD治療の臨床に生かされるまでには、まだまだいくつもの壁を乗り越えなければならないことでしょう。また、記憶を操作することにまつわる問題も、どこまでもついてくることでしょう。それでも、PTSDに苦しむ人たちを助けることに、一筋の希望が生まれたとはいえると思うのです。それに、薬を使わずにって・・・やっぱり、すごくないですか? びっくりです。びっくりではあるけれど、たしかに言われてみれば、できて当然とも思うんですよね。人間って、面白い!

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さて、今回のテーマと関係のあるものを、書籍、映画、そして漫画のジャンルからを、それぞれひとつずつご紹介したいと思います。

まず書籍ですが、『ニューヨーカー』の記事には、記憶の研究の歴史的な展開についてもざっくりまとめて紹介されていました。科学は、巨人の肩のたとえどおり、次の世代が少しずつ先を見ていくようなところがありますが、その観点から言うと、エリザベス・ロフタス→エリック・カンデル→カリム・ナダー→ダニエラ・シラーという、ひとつの流れがあると見ることができそうです。とくに、ニューロンレベルでの心の理解ということでは、エリック・カンデルが重要かもしれません。2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞したカンデルと、やはりその分野の大物であるラリー・スクワイアの共著の大著『記憶のしくみ』が翻訳されています。実は私もまだ読んでませんが、読むぞー! ってことで(^^;) ※仲野徹のレビューはこちら

次に映画です。たまたまですが、ダニエラ・シラーが博士号を取得した年に公開された『エターナル・サンシャイン』。ジム・キャリー&ケイト・ウィンスレット主演で、(ホビットの)イライジャ・ウッドも出ています。恋人とけんかして傷ついた女が衝動的に「記憶除去手術」を受けるが・・・というお話で、やはりと言うべきか(たいていの小説なり映画なりはそうなんですが)情緒記憶ではなく記述的記憶の除去という扱いになっていますが、それでもいろいろ考えさせられます。

2004年のアカデミー脚本賞他、様々な賞を受賞しています。チャーリー・カウフマンがプロデューサー&脚本(脚本家三人のうちの一人)をやってます。カウフマンは怪作『マルコヴィッチの穴』の脚本家でもあるんですね。記憶を操作されるときのシュールなシーンなどは、『マルコヴィッチの穴』的かも?

そして漫画です。記憶とアイデンティティーに深く食い込む漫画なら、これを読め! 鬼才三宅乱丈の『PET』。リマスターエディションを五巻大人買いして、ドゾ!

The New Yorker [US] May 19 2014

出版社: Conde Nast Publications

内容紹介
過去にも多くの著名作家が寄稿した歴史ある雑誌。小説、評論、エッセイのみならず、政治経済関連の話題も独自取材し、幅広いテーマを取り上げる週刊誌。

『ノンフィクションはこれを読め! 2013』HONZが選んだ110冊
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社

内容紹介
『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』『ランドセル俳人の五・七・五』等、書評サイトHONZのお薦めレビューを集大成。