「上書き保存」で、記憶を編集する
ニューロンの科学が示唆するPTSDの治療

さてここで、ひとつとても重要な注意点があります。ここでいう「恐怖の記憶(恐怖記憶)を消す」というのは、その恐ろしい「出来事に関する記憶を消す」ことではない、という点です。

記憶というと、わたしたちはたいてい、記述的記憶(陳述記憶、宣言記憶とも)と呼ばれるものを考えます。たとえば、「野うさぎを追いかけて沢を少しのぼったら、小熊をつれた母熊に遭遇し、命からがら逃げたけれど、右腕を肩から食いちぎられてしまった」というように、言葉で語ることができる記憶を、記述的記憶といいます。それに対して、その恐ろしい経験にともなう恐怖記憶というものがあり、たとえば、「街を歩いていて、くまモンの着ぐるみにばったり出くわし、そのとたん、激しい動悸が起こって冷や汗が噴出し、立っていられなくなって崩れ落ち、かがみ込んだまま身動きが取れずにいたら、親切な人が救急車を呼んでくれて病院に担ぎこまれ、鎮静剤を打ってもらい、しばらく休んでどうにか帰宅することができた。もう外に出たくない」といった現象を引き起こすのが、さきほどの記述的記憶と結びついた強い恐怖記憶です。

最新の脳科学により、PTSDの治療に光が見えてきた、といった記事をWeb上で見かけると、この二種類の記憶が、しばしば混同されているように見えるのです。つまり、恐怖記憶を消すだけでなく、「野うさぎを追いかけて沢を・・・」という記述的記憶を、丸ごと消してしまうこと、と誤解されているケースがままあるように思えるのです。

PTSDの治療との関わりで言われている記憶の消去は、恐怖記憶の消去であって、出来事そのものを忘れてしまうことではありません。これはとても重要なポイントなので、今回の「サイエンス通信」を読んでくださったあなたが、何かひとつ記憶に残すとしたら、「記述的記憶と恐怖記憶は別のものだ」というあたりを残していただきたいな、と思います。

さて、ニューロンレベルで、脳の働きについての研究が進んだおかげで、記憶についても基本的なことがいろいろとわかってきました。たとえば記憶のタイプごとに、脳の中でその記憶が貯蔵される場所も違うといったことも、そのひとつです。記述的記憶は、脳の中でも海馬(有名ですよね!)と言われる部位に貯蔵されるのに対し、恐怖記憶は(「恐怖」だけではなく情緒一般ですが)、扁桃核(扁桃体とも)と呼ばれる部位に貯蔵されます。扁桃核は、左右の側頭葉の奥のほう、眼の奥のあたりにあります。

記憶にはそのほかにも、手続き記憶というものがあります。たとえば、自転車の乗り方とか、雑巾の絞り方とか、服のボタンのはめ方とかとか、ピアノのスケールの弾き方とか、いわば「昔とった杵柄」的な記憶がそれです。これは、当然と言うべきか(手をコントロールする領域とか、足をコントロールする領域とかありますからね)、脳のあちこちに分散して貯蔵されるのだそうです。また、記憶の形成や抹消に関与するタンパク質を作るための遺伝子や、逆に作らないようにするための遺伝子なども次々と明らかになってきています。これらの成果から、記憶を助けたり、消去したりするために使える、新世代の薬が作れるかもしれないという段階に入りつつあります。

記憶のメカニズムについては、21世紀に入るくらいまで、長きにわたって支配的だったパラダイムがありました。それを大ざっぱに述べれば、「記憶というものは、定着(固定)するまでは不安定だが、いったん定着してしまえば安定し、そこから先は時間が経つとともに、外からの干渉にも反応しにくい強固なものになる」というものでした。

しかし近年、独創的な実験により驚くべき証拠が集まってきたおかげで、記憶に関するそのパラダイムが大きく変わりつつあります。

今日の記憶イメージは、たとえて言うなら、コンピュータで文章を編集するのに似ています。過去の経験を想起するのは、ハードドライブから記憶を呼び出して編集するようなもの。そして多くの場合(そこがあやふやなだというところが鍵なんですが)、編集された記憶は、「名前をつけて保存」されます。実はこの、「名前をつけて保存」になってしまうということが、PTSDの行動療法の難しさにもなっていたのでした。

たとえば、あなたにディスプレイの前に座ってもらい、そのディスプレー上にランダムにさまざまな色の四角形が現れては消えるようにします。そして、青色の四角形が現れた直後にだけ、手首に電気ショックを与えます。そのショックは、怪我をするほどではないけれど、かなり痛く、あなたはすぐに、ショックが来るのは青色の四角形を見た後であることに気づき、青色の四角形が現れると、身をすくめ、心臓の鼓動が速くなったりするわけです。

この恐怖経験を消すために、青色の四角形が出ても、ショックを与えないということを繰り返します。これを「消去訓練」といいます。ショックが来ないという経験を積み重ねることにより、恐怖感を薄めていこうというわけです。

行動療法の場合は、「名前をつけて保存」となります。つまり、過去の恐怖体験とは別の記憶として保存されてしまうのです。恐ろしい出来事を伴わない経験の回数が増えれば、「大丈夫大丈夫、青い四角形がディスプレイに登場しても、ショックは起こらない」という具合に、恐怖をコントロールできることもあります。が、何らかのストレスがある状態では、残念ながら、もともとの恐怖記憶が想起されてしまうこともあるのです・・・。