プロ野球異聞録 転向——「小さな4番打者」ヤクルト・雄平の決断 入団から7年、投手を捨てた……

週刊現代 プロフィール

「真面目な性格だから、周囲のアドバイスをすべて取り入れようとしたのが良くなかったのかもしれない。考えすぎて、自分のフォームを完全に見失っていた。球は速いんだから、開き直ってド真ん中に投げこむくらいの楽な気持ちが持てれば良かったんだけど……」

'08年には高田繁新監督から期待され、再起を図るも、制球に意識を奪われて、本来の直球の勢いを失ってしまう。雄平のストレートは、いつのまにか140㎞にも届かなくなっていた。

結局'08年と'09年の2年間で一軍登板数はわずか1試合ずつ。雄平は、首脳陣から投手として「失格」の烙印を押された。背番号も'06年の石井の復帰に伴い16番から22番に変更。翌年には高津臣吾にその番号も譲り、41番へと「降格」された。

そして転機は訪れる

'09年のシーズン中、ヤクルトの二軍が練習する戸田球場では、プロの世界ではありえない光景が繰り広げられていた。雄平が、誰もいないネットに向かって、一人で黙々とボールを投げ続けていたのだ。当時、二軍監督を務めていた猿渡寛茂が言う。

「本人はどうしてもピッチャーを続けたがっていたんだけど、もはや腕も心も萎縮してしまってキャッチボールすらまともにできない状態だった。いわゆるイップスですね。だからキャッチボールもピッチング練習も禁止したんです。『フォーム固めは一人でやれ、投げたければ一人でネットに投げてろ』と突き放しました。キャッチボールの相手だって暇じゃない。そんな基本的なことに、二軍とはいえ他の選手を付き合わせることは出来ないからね」

非情にも思える「特別措置」。だが、猿渡が雄平を突き放した本心は別のところにあった。

「打者をやってみないか」

猿渡は、雄平にそう持ちかけた。

「実は、秋季キャンプが始まる前から、当時の高田一軍監督に『雄平を野手に転向させます』と宣言していたんです。彼がトスバッティングをしているのを見た時、高校時代は主軸を打っていただけあって、ピッチャーなんだけどバットコントロールがうまいなぁと感心したんですよ。

本人には『一回、野手として試合に出て、何かを感じてほしい。ピッチャーを捨てるわけじゃない。外野からマウンドに戻ることもあるから』と言いきかせました。今でこそ大谷君が実現していますが、当時はまだ夢のような話だった『二刀流』の提案です」

雄平は、猿渡の助言に従い'09年のシーズン終了後、若手育成の名目で行われるフェニックス・リーグに「野手」として参加した。