もの忘れの原因は「記憶力」ではなく「こころの黒板」だった!

ワーキングメモリと『物忘れの脳科学』
苧阪 満里子 プロフィール

私たちの日常は、記憶することだけに集中できる場面は少なく、行動しながら記憶しなければならない場合がほとんどだ。

たとえば、繰り上がりのある暗算問題を解く場合などもその一例である。暗算をしながら、繰り上がり情報を記憶していなければならない。でなければ、暗算問題は正解に至らない。

会話する時も同様である。ただ会話を聞くだけではなく、相手がこれまでに話した内容をしばらくの間だけ憶えておきながら、自分が何を話すか考えなければならない。会話の最中に他のことに気を取られていると、話の続きがわからなくなってしまう。

親しい友達との会話ではこのようなことは思い当たらないかもしれないが、新しい商品の説明を聞いていて、聞きなれない用語が次々と出てきたために、何度も聞き返してしまったという経験は多くの人にあるのではないだろうか?

私たちは常に必要な情報を判断し、一時的にこころの中にとめておきながら行動することが必要になる。そこで「こころの黒板」として重要なのが、ワーキングメモリである。

「もの忘れ」が頻繁に生じる原因の一つとして、ワーキングメモリにきわめて厳しい容量の制約があることがあげられる。本書では、ワーキングメモリ容量の個人差を測定するテストであるリーディングスパンテストの結果をもとに、ワーキングメモリとその脳内機構について紹介している。

リーディングスパンテストは、ワーキングメモリにどれほどの情報を保持できるかを測定するテストである。

このテストは、数字をどのくらい多く憶えられるかといった単純な記憶力を問題にするのではなく、文を読むという理解を伴う行動とともに、どの程度まで、文中の特定の単語が記憶できるかを問うテストである。これは二重課題といわれる。あたかも、本を読みながら、その内容をどのくらい理解して憶えておけるかを測定するのに似ている。

ワーキングメモリの容量には制約があるので、文を読みながら、単語を記憶することも制約をともなう。そこで、二重課題を効果的にこなすには、ワーキングメモリの中央実行系という制御機能のはたらきが必要になる。

中央実行系は、ワーキングメモリの司令塔のようなものだ。文中の単語をすべて記憶していたのでは、容量をすぐに超えてしまうため、記憶するべき単語だけに目標を絞る必要がある。

何に注意を向けるか、必要でない情報への注意をいかに抑制するかといった制御が必要になるのである。

この時、中央実行系がうまくはたらくかどうかが、テストの結果に個人差をもたらす。本書では、この個人差をもとに、ワーキングメモリの特徴を探索している。中央実行系の制御が上手な人たちは、日常の認知課題、たとえば本を読んで内容を理解することも得意である。一方、制御が上手でないと、必要でない情報に目を向けがちになり、憶えておかなければならない肝心な情報が抜け落ちたりする。

このような制御の失敗は、「もの忘れ」の一因となる。必要でないことに気が逸れ、肝心な内容を忘れてしまうのである。かといって、決して記憶ができないわけではない。というのは、必要でない情報は、多く憶えているからだ。

つまり、「もの忘れ」は、記憶できないから生じているのではない。重要なのはワーキングメモリをいかに効率的に使えるかどうかということなのだ。

また、ワーキングメモリに保持していた情報は、目標が終了すれば消去されなければならない。いつまでも元の情報が消えずに残っていると、次の情報を記憶する妨げになる。長く記憶できることだけが、大切なわけでもないのだ。絶え間ない情報の活性化と保持、さらには活性化された情報の統合により、私たちの認知活動が可能となるのである。

本書では、こうしたワーキングメモリのはたらきを支える脳の仕組みやそのはたらきを高める方法についても紹介している。

私たちが毎日の生活をなめらかに営むには、ワーキングメモリのはたらきが必須である。ワーキングメモリをうまく使うことができれば、脳のはたらきを健全に保つことにつながるだろう。本書がもの忘れに不安を感じるみなさんに役立てば幸いである。

(おさか・まりこ 大阪大学人間科学研究科教授、認知心理学)
講談社 読書人「本」2014年8月号より


「もの忘れ」はなぜ起こる? どうすれば防ぐことができる? その鍵はワーキングメモリと呼ばれる脳内システムにあった!

もの忘れは、決して記憶力そのものが低下したからではなく、自分の記憶システムをうまく使いこなせないために起こると言えます。日々の生活を支えるワーキングメモリの機能を健やかに保つ方法は、私たちの生活の中にこそあります。 ワーキングメモリの仕組み、またうまく使いこなし健やかな脳の活動を保つにはどうすればよいのかを、最新の脳科学、神経心理学をもとに第一人者がくわしく解説します。

◆著者紹介
苧阪満里子(おさか・まりこ)

1979年京都大学大学院教育学研究科博士課程修了、教育学博士。1985年大阪外国語大学外国語学部助教授、2001年同教授、2007年より大阪大学大学院人間科学研究科教授、現在に至る。大阪大学脳情報通信融合研究センター教授(兼任)。日本学術会議第一部会員、日本ワーキングメモリ学会理事。専門は認知神経心理学。著書に『脳のメモ帳 ワーキングメモリ』(新曜社)がある。