感動読み物この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 後編 父との対面と、突然の別れ

週刊現代 プロフィール

伊良部はほとんど話をせず、通訳のローズが気を遣って様々な話題を振った。二人の距離が近づいたのは、煙草を吸うために外に出た時だった。煙草を切らすことができない二人は、並んで煙草をふかした。しかし、ぎこちない、途切れた会話しかできなかった。

このとき、トンプソンは日本語をきちんと勉強しようと決意した。彼の心を解きほぐすには自分が日本語を覚えるしかなかった。翌年からトンプソンは地元のアンカレッジ大学の日本語講座に通うことにした。

このころから、伊良部の妻・京淑と電話やメールで連絡を取るようになった。結婚式の写真や孫の写真を送ってもらった。トンプソンの子どもは伊良部だけだった。孫の写真を大切にアルバムに貼って、時間があれば眺めた。

一方、トンプソンと会って以来、伊良部の成績は下降線を辿った。出会った年、'99年シーズンこそ11勝7敗、防御率4・84とまずまずの成績を残し、ヤンキースのワールドシリーズ制覇に貢献した。しかしその後、あれだけこだわったヤンキースとの4年目の契約を破棄してモントリオール・エクスポズへ移籍。新天地には2年間在籍したが、わずか14試合の登板に終わった。2勝7敗、防御率6・69という成績だった。次の移籍先のテキサス・レンジャーズではリリーフに転向するも、3勝8敗16セーブ、防御率5・74と調子は上がらず、シーズン終了後に自由契約となった。

その後、帰国して'03年に阪神で13勝を挙げたが、活躍は長続きせず2年で戦力外。独立リーグに籍を移しても、輝きは取り戻せなかった。「大リーグへ行って、親父を探すんや」。中学時代から公言していた目標を達成して、燃え尽きてしまったかのようだった—。

そして'11年7月。

トンプソンは伊良部が自殺したことをテレビのニュース速報で知った。レンジャーズのキャンプを訪ねた際に言葉を交わしたのが最後となった。トンプソンはぼくの顔を見た。

「涙がボロボロと止まらなかった。秀輝の死は私の身体に影響を与えた。私は体調を崩した。肺がんを患い、手術を受けた。ただ、君から秀輝のことを調べているというメールをもらった時は嬉しかったよ。彼のことを話せるなんて光栄だ。これまで秀輝に話していなかったことまで君に話そうと決めたんだ」

自殺の約2ヵ月前、最後のインタビュアーとなったぼくが伊良部に話を聞いたとき、こんなやり取りがあった。普段、何をしているのか訊ねると、「時々、近くに住んでいる子どもに野球を教える程度で何もしていない」と答えた。

「悠々自適なんですね。伊良部さんはこれまで何十億も貰っていますし、一生働かなくてもいい……」

「どうなんでしょう」

伊良部はぼくの言葉を遮った。