感動読み物この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 後編 父との対面と、突然の別れ

週刊現代 プロフィール

第二次世界大戦後、アメリカ軍は沖縄本島中部の越来村に駐屯した。通称「キャンプ・コザ」である。周囲にはアメリカ軍の兵士を当て込んで、ホテル、飲食店が立ち並んでいた。

「焼き鳥や餃子のような料理を出す店だった。客には日本人もいた。多くはアメリカ人だったけれどね。コザのメインストリートから少し外れた、飲み屋街にあった」

店へ通い、親しくなったのだと付け加えた。

その後、1968年からトンプソンは気象予報士としてベトナムへ向かった。飛行機、あるいはヘリコプターの操縦士のために様々な情報を集めて天候を予想するのが気象予報士の職務である。

トンプソンは自分の息子、伊良部秀輝が産まれたことを沖縄からの手紙で知った。

「和江はあまり英語を話せなかった。和江の友だちのノリコという女性が代わりに手紙を書いてくれたようだ。ノリコは多少英語が出来た」

約1年のベトナム駐屯の後、トンプソンは沖縄に戻った。すぐに和江に会いに行き、伊良部を抱いて散歩に出かけた。伊良部は年の割に大きく、ずっしりとした重みがあった。トンプソンが指を突き出すと、強く咬んだ。その痛みがトンプソンには嬉しかった。

伊良部を抱きながら、公園でぼんやりとしていると、中学生ほどの子どもたちがユニフォームを着て試合をしていた。その姿を伊良部は興味深そうに見ていた。野球に興味があるようだった。その顔を見て、父親のデビッドを思い出した。

1964年に亡くなったデビッドは息子と同じ5月5日生まれだったのだ。

(この子は父さんの生まれ変わりだ)

そう思うと愛しさが増した。1969年末、トンプソンはアメリカに帰国することになった。

「すぐに沖縄に戻って来る」

トンプソンは和江に約束した。しかし、約束は守られなかった—。

テレビの中に「息子」がいた

帰国後の話になると、トンプソンの口は極端に重くなった。

当時、アメリカでは反戦運動が盛んになっていた。アメリカの空港に着くと、フラワーチルドレンたちが待ち構えており、兵士たちに向けて唾を吐いた。