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作家・赤坂真理 語られない「戦後」の深層にダイブする

愛が暴力的な態度で語られた時代に

憲法論議の前に…

何から話していいのかわからない。

愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)という本を書いた。その本のために、今、何かを書くことになっているのだが、これが何から書いていいのかさっぱりわからない。

この気持ちは今に始まったことではなく、本を書いているあいだじゅう、ずっとあった。歴史があまりにつながらなくなっていて、何があったのか、戦後でさえわからなくなっていたから。

共有されていることがないので、何を言うにも、全部を言わなければならなくなってしまう。

いやだからこそ、研究者でもない私が、歴史などに踏み込んでみようと、無謀にも思ったのだろう。

私はきっとヘンにチャレンジャーな性格なのだろう。「わからない」ということこそが、一般的日本人であるとどこかで直感したからこそ、不勉強のそしりは覚悟しながらも、その立場から問いを立てることは、有効であるように思えた。

自明に見えすぎて研究者が問わないことを、問うことで日本人の深層が出てくるような気がしたのである。

愛と暴力の戦後とその後

果たして――私が直面したのは、それよりずっと根の深いことであったように思う。

たとえば。

憲法議論が今さかんであるけれど、ひとつ、質問をしてみたい。

Q. 憲法の「憲」が、どういう意味か、あなたは言えますか?(自問してみて、私はわかりませんでした)

私は、周囲の20人くらいに質問してみたけれど、その段階で、「憲」の字の意味を言えた人はいなかった。みんなそれぞれ知的な人だ。けれど言えなかった、というより、知らなかった。

A. 憲法の憲は、「おきて」という意味。だから、「憲」も「法」も、両方同じような意味を重ねた言葉。

驚いてしまった。

「憲法」はConstitutionの訳語と言われているけれど、Constitutionが表すような「国家を規定する(一般法規より上位の)法」とか「国家権力を規制するための法」というような意味はないし、それがないことを、日本の一般的な人々が(私も含めて。私は法学部政治学科の出身だし、法律学科の大学院で憲法を研究した友達も質問した中にいた)、知りもしない。

だったら、私たちがする「憲法」議論て、なんなのだろう?

憲法は私たちの血肉だろうか?

憲法の意味のほうが、あとづけのお勉強で、それはぜんぜん、私たちの実感では、ないではないだろうか?

憲法とは国家の構成を決めるもので、それがむやみに改変されたりするとき、自分の体がいじくられるような感覚を、多くの日本人は持つだろうか?

なぜ、「憲法」の憲と、「官憲」の憲、に同じ字が当てられて違和感がないのだろう? それらは相反する力のはずだ。