これは明らかな噓だった。
彼は複数の記者、関係者に「父親を探しに行くため」という話をしている。また、伊良部の姿形は子どもの頃から他と違っており、自分の父親がアメリカ人であることは認識していたはずだった。
それでも死後1年後、彼を書こうと決めた。
死の直後、彼に関する様々な記事を目にした。その後、遺骨を巡って親族が衝突しているという記事が続いた。そこからはぼくが見た、物静かで繊細、そして野球を熱心に語る伊良部の姿が見えてこなかったのだ。
生前、付き合いのあった人間を訪ね、彼が吸った空気を感じたいと、育った尼崎を始め、香川県、高知県、ロサンゼルス、ニューヨーク、沖縄本島、宮古島を訪ねた。
どうしても会わなければならないと思っていたのは、アメリカ行きの理由となった〝実の父親〟だった。
つてを辿って探し当てると、彼はアラスカ州に住んでいた。昨年9月、ぼくはアンカレッジで彼と会うことになった。彼は涙ぐみながら「伊良部にも詳しく話せなかったことがある」と喉から絞るように息子と別れなければならなかった経緯を教えてくれた。
取材を続けるうちに、ぼくは何度か伊良部の夢を見た。その顔は次第に幼くなり子どもの顔になった。伊良部は大きな軀をした子どもなのだと思うようになった。
子どもは正直である。だから噓をつくのだ。彼は野球の才に恵まれた子ども―「童」なのだ。
彼が幼い頃は今以上に、日本の社会は異物を排除した。見た目が他と違う彼は様々な嫌な体験をしてきたことだろう。自分を護るためもあり、その場を取り繕う噓を沢山ついてきた。そう考えると彼の噓は愛おしくなった。
ノンフィクションを書くことは、被取材対象とがっぷり4つに組むことである。相手が強靭な肉体を持ち、無尽蔵の力を発揮すれば、こちらの力もそれに応じなければならない。今回はまさにそんな取材だった。この『球童 伊良部秀輝伝』を書き上げた今、ぼくは彼に作家として成長させてもらった気がする。
(たざき・けんた ノンフィクション作家)
講談社 読書人「本」2014年6月号より