特別対談 加藤陽子(東京大学教授)×高木徹(NHKディレクター)---「国際メディアと日本人」

加藤陽子, 高木徹

高木 これと時を同じくして、衛星中継や放送技術の革新によって、CNNやBBCなどの英語圏のテレビ局が国際的な影響力を増していきました。その結果、そうした「メガメディア」がどういう報道をするか―どちらが善でどちらが悪とするか―によって、国際世論が形成され、現実の国際政治も動くという事態が出現したわけです。

このことに気付いた世界の政治指導者は、自らに有利な国際世論をつくるために様々なメディア戦略を駆使していますし、欧米にはそのためのPR会社も存在しています。

しかし、日本人はどうもこの分野が得意ではありません。本で詳しく書きましたが、PR(Public Relations)という概念自体も社会に根付いているとは言いにくい。これは昔からそうだったような気がします。もっと言うと、情報戦に対する感覚の鈍さが、日本が「あの戦争」をやってしまった要因の一つではないかと思うのです。当時と今とではメディア状況が全く違うので、単純に比較はできませんが、いかがですか?

加藤 まず、わかっていた人はわかっていたと思います。

たとえば、一九三一年九月に満州事変が起きた時の外相だった幣原喜重郎。国際連盟が、満鉄附属地内に期限付きで軍を戻せと要求すると幣原は、その要求に応える必要はない、日中間で協議すると答えます。国際法の専門家で、アメリカ国務省極東部長だったホーンベックなども、この幣原の言い分が完全に正しいと認めていました。日露戦争で日本が得た条約上の権利に基づき、日本が同地に干渉したと言う以上、他国の介入は難しかったのです。アメリカも、連盟の外側から「不承認」と言うしかない。幣原は、連盟とアメリカを両睨みしつつ、論理と情報に従った外交を展開していました。幣原の戦略は、国際的に見ても正しかったと思います。

ただ、こうした外交を展開するときに幣原は、自国の軍部の手の内を見せてもらえないというジレンマを抱えていました。国際連盟の本部ジュネーブの日本代表部では、外務省と参謀本部に行く電報が別々の系統になっていました。軍の作戦行動を外交の側で制御できないのです。文武の間でコミュニケーションが十分に取れていなかったのは、日本が当時の情報戦を戦ううえで決定的に不利だったと思います。

高木 もう一つ私が気になるのは、現在の日本では、「国内で通じる論理」と「国際メディア情報戦で通じる論理」がすごく乖離している印象があります。もちろん民主主義国家なので、政治指導者は国内をまずは納得させないといけないわけですが、しかし、海外では別の論理を使わないと「サダマイズ」(サダム・フセインのように、指導者個人のイメージを徹底的に悪化させ、その国を追い込む)の危険が常にあります。

この点、戦前期の乖離はもっと大きかったのでしょうか?

加藤 国内向けの顔と海外向けの顔ということで言うと、歴史的に見て、日本人は中間案とか妥協案をつくるのがすごく不得意な国民だと思います。仮にそういう案でトップが決断しようとしても、国内が許さない。極端に言えば、0か100しかない。

一九四一年の日米交渉で懸案となったのは日中問題でした。日中間は、一九三七年以降ずっと交渉途絶だったように見えますが、裏面では蔣介石の許まで和平交渉のパイプは届いていました。しかし、すべて失敗に終わります。日本内部で軍や外務など、政治主体の足並みが揃わなかったからです。

吉野作造は一九三二年十月三日の日記に、リットン報告書は、客観的に読めば、欧州の正義の常識を書いたもので日本にも十分宥和的な案なのだと書いています。けれども、国民としては、希望的な観測を書き散らしたメディアのせいで、ずっと良い案が出ると思っていたわけですね。ですから、トップが妥結しようとしても国民が許さない。