忘れもしない'81年8月26日のヤクルト戦。この日私は、先発投手を任されていました。
7回まで4対1とリード。ところが8回、1点を返され、その後もランナー2人を背負うピンチになった。私はどう切り抜けるべきか作戦を確認しようと、ベンチを見た。するとベンチにいた中西監督が、コソコソとダッグアウトの奥に入っていく姿が見えた。
唖然としましたよ。動揺を隠せず、同点タイムリーを許し降板した。怒りのあまり、ロッカールームに向かうとき、「ベンチがアホや」という言葉が出たんです。
それを記者が聞きつけたんでしょうね。翌日のスポーツ紙の一面に、でかでかと私の発言が載ってしまった。
実はそれまでにも中西さんとは因縁があったんです。
発端は中西さんがバッティングコーチだった'79年。キャンプでの練習中、突然中西さんが狭いスペースで打撃練習を始めさせ、打球が別の練習をしている選手に当たるという事件があった。私は選手会長だったから、中西さんに文句を言った。それだけならまだよかったんですが、のらりくらりとした中西さんの態度に腹が立ち、熱くなってタバコまで投げつけてしまった。
以来、犬猿の仲でした。そんな中西さんが翌年から監督になったものだから、シーズン中、先発だリリーフだとめちゃくちゃな起用をされてきた。
そんな伏線があった上で迎えたのが、5月26日のヤクルト戦でした。あの発言は、積もり積もった恨みに対するものだったんです。
発言の翌日、球団から10日間の謹慎を言い渡された。それで気持ちの糸が切れてしまった。当時私は34歳。その年齢だと、10日休めば、調子を取り戻すのに1ヵ月以上かかる。我慢して戻っても、中西さんが監督でいる限り、また嫌がらせがある。私はその場で引退を宣言しました。
でも正直、その決断が正しかったのかという迷いはありました。引退してから5〜6年は「あんな人のために辞める必要があったのか」と、自問自答の日々でしたよ。だからこそ、私は中西さんを許せなかったんです。
その気持ちと折り合いをつけられたのは、現役を退いてから10年以上経ってからですね。議員をやったり、指導者をやったりして、自分も人に何かを伝える側に立ったとき、ふと中西さんの気持ちがわかるようになったんです。
人間は立場によって、言いたくないことも言わなければならない。理不尽だとわかっていても、それを下の者に課さざるをえない時がある。私のように生意気な選手には、中西さんは厳しく接するしかなかった。そうしなければ、監督としての威厳が保てなくなり、チームは機能しなくなっていたでしょう。