『屋根屋』著・村田喜代子---屋根屋を捕らえる

群像

彼は冷たい麦茶をよばれながら、少しだけ自分のことをしゃべった。商売をしていると、悪質な施主が代金を踏み倒すこともたまにあるという。十年も昔、それが何回か重なってウツになり、精神科のクリニックで治療を受けて治ったという。そのとき夢日記というのを書かせられた。几帳面な人物のようで、それが今も続いているというのである。

日記に記す最初の晩の夢は、とくに形もなかったという。水とも空気ともつかない、色のない空間を、ゆっくり泳ぐように両手を動かして進んで行く夢だった。後もない、先もない。ただそれだけを見た。それを小学生の夏休みの日記みたいな文章で書いたそうだ。

屋根の修繕は二日で終わり、彼は帰って行った。だから私が聞いた話はそれきりだった。具体的に夢日記を書く治療というのがどんなものなのか、ろくに聞かないまま終わってしまったが、以来ときどき私の夢の中に、魚のエイのような大きな黒い影がゆらゆら泳いで行くのを見る。エイの頭の形が何となくその男に似ていた。

私はめったに夢を見ないタチである。また夢というものにことさら現実生活の深層の意味を読み取るような特別な興味も持たない。ただそんな自分の夢の一瞬に現われる、男と私の共同空間の不思議を思ったものだった。その夢の奇妙な水中は、この世界のどこにもない場所である。私が眼を覚ますと閉じられてしまう「場所なき場所」である。

小説の支度は整った。私は書き始めた。舞台は屋根、登場人物は彼と私。タイトルはむろん『屋根屋』である。執筆中、私は一度も彼の夢を見なかったが、連載を読んでいた女友達の幾人かは、夢の中にこの男の大きな黒い影が飛来して悲鳴を上げたという。私は一人の男を夢の水中に捕らえたように思った。

(むらた・きよこ 作家)


これぞ究極のランデ・ヴー!
屋根修理の職人に誘われ、「私」は夢の中でフランスの大聖堂の屋根を訪れる。屋根屋と中年主婦の夢の中でのファンタジックな邂逅。

雨漏りのする屋根の修繕にやってきた工務店の男は永瀬といった。木訥な大男で、仕事ぶりは堅実。彼は妻の死から神経を病み、その治療として夢日記を付けている。永瀬屋根屋によれば、トレーニングによって、誰でも自在に夢を見ることができるという。
「奥さんが上手に夢を見ることが出来るごとなったら、私がそのうち素晴らしか所に案内ばしましょう」
以来、二人は夢の中で、法隆寺やフランスの大聖堂へと出かけるのだった。

◆著者紹介
村田喜代子(むらた・きよこ)

1945年、福岡県北九州市生まれ。87年、「鍋の中」で第97回芥川賞を受賞。90年、『白い山』で女流文学賞、92年、『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞、97年、『蟹女』で紫式部文学賞、98年、『望潮』で川端康成文学賞、99年、『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞、2010年、『故郷のわが家』で野間文芸賞、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞を受賞。

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