彼は冷たい麦茶をよばれながら、少しだけ自分のことをしゃべった。商売をしていると、悪質な施主が代金を踏み倒すこともたまにあるという。十年も昔、それが何回か重なってウツになり、精神科のクリニックで治療を受けて治ったという。そのとき夢日記というのを書かせられた。几帳面な人物のようで、それが今も続いているというのである。
日記に記す最初の晩の夢は、とくに形もなかったという。水とも空気ともつかない、色のない空間を、ゆっくり泳ぐように両手を動かして進んで行く夢だった。後もない、先もない。ただそれだけを見た。それを小学生の夏休みの日記みたいな文章で書いたそうだ。
屋根の修繕は二日で終わり、彼は帰って行った。だから私が聞いた話はそれきりだった。具体的に夢日記を書く治療というのがどんなものなのか、ろくに聞かないまま終わってしまったが、以来ときどき私の夢の中に、魚のエイのような大きな黒い影がゆらゆら泳いで行くのを見る。エイの頭の形が何となくその男に似ていた。
私はめったに夢を見ないタチである。また夢というものにことさら現実生活の深層の意味を読み取るような特別な興味も持たない。ただそんな自分の夢の一瞬に現われる、男と私の共同空間の不思議を思ったものだった。その夢の奇妙な水中は、この世界のどこにもない場所である。私が眼を覚ますと閉じられてしまう「場所なき場所」である。
小説の支度は整った。私は書き始めた。舞台は屋根、登場人物は彼と私。タイトルはむろん『屋根屋』である。執筆中、私は一度も彼の夢を見なかったが、連載を読んでいた女友達の幾人かは、夢の中にこの男の大きな黒い影が飛来して悲鳴を上げたという。私は一人の男を夢の水中に捕らえたように思った。
(むらた・きよこ 作家)