第73回 御木本幸吉(その二)天然真珠の質と量を上げたい。同郷の有力者を熱心に説得した

福田 和也

しかしその後、真珠貝にとってもっとも恐ろしい赤潮が発生し、神明浦の貝は全滅した。
幸吉は、損害の大きさに茫然となりながらも、諦めずに、真珠の養殖に励んでいた。
明治二十六年七月十一日。
幸吉は、妻のうめと二人で、鳥羽浦相島(現ミキモト真珠島)で実験のために施術した貝をひきあげた。
その時、うめの開いた貝の中から、夢にまでみた真珠をみつけたのだ。
片端から貝を開いてみると、わずか数個ではあったけれど、真珠が出てきたのである。

真珠の養殖英虞湾 (三重県)で盛ん。筏(写真)から吊した小枝に海に浮遊する真珠貝の稚貝を付着させて育てる

かくして御木本真珠養殖場が設立された。
田徳島とその周辺の漁場六万坪を借りて、いよいよ養殖場は発足した。
幸吉は抜け目なく、真珠養殖技術の特許を出願した。
この特許は発明者を御木本幸吉とし、明治二十九年一月二十七日付で許可された。
特許の取得で、御木本は養殖事業をしばらくの間、独占できるようになったのである。

ところが、その四月。愛妻、うめが死んだ。
うめは卵巣水腫と診断され、京都府立病院で切開手術を受けたが、手おくれだった。
夫の事業の成功を見届けられたのが、せめてもの慰めだが、これから富豪の妻として、贅沢三昧の暮らしが出来たろうに、まったく気の毒な事だった。

明治三十二年三月。
銀座裏の弥左衛門町に、実弟斎藤信吉を主任として天然真珠と養殖真珠の販売のための御木本真珠店を開店した。
店舗はごく、こぢんまりとしたもので、家賃は月十二円だったという。
しかし幸吉の野望は尽きる事がなかった。
ささやかな店舗を構えたばかりなのに、世界を相手に商売をしようと目論んだのである。
明治三十七年、セントルイス万博に出品した後、ロンドンの博覧会にも出展している。

そして明治四十四年、ロンドンの宝石商の中心市場であったハットン・ガーデンのダイヤモンド・ハウスに、イギリス側と共同で支店を設ける事になった。
幸吉は、真珠の質を追求するだけでなく、装身具としてのデザインを洗練する必要を痛感していた。
幸吉は、小林豊造に、白羽の矢をたてた。
明治三十六年に文部省から派遣され、欧米の貴金属技術を研究、調査した人物である。

小林は、東京高等工業学校の教員であり、当時、もっとも斬新な装身具を作っていた村松万三郎商店の顧問を兼ねていたのである。
明治四十三年、幸吉は、小林を工場長として迎え入れた。
かくして幸吉は、特許権にまもられて、独占的な地位を獲得するなかで、小林にダイヤモンド研磨の技術も身につけさせたのである。

『週刊現代』2014年4月5日号より

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