第72回 御木本幸吉(その一)足芸を披露して英国人に大評判。うどん屋の息子から「真珠王」へ―

福田 和也

「東京にいかなければ、駄目だ」

翌年、幸吉は東京へと旅だった。
同じ町の森岡利右衛門という人が、東京に行くというので、連れていって貰ったのだ。
幸吉は、芝、今井町にあった、伊勢松阪の出身者が経営している和泉屋旅館に宿をとり、東京はもちろんのこと、横浜、横須賀まで見学に行ったという。

敏腕な妻とともに海産物を売りに売った

御木本幸吉(1858~1954)真珠の生産・販売で知られる「ミキモト」の創業者。家業のうどん販売ではなく、海産物商人の道を選んだ

当時、貿易の中心地は、横浜と横須賀であった。
外国人が貿易の中心になっていたが、何といっても衝撃を受けたのは、華僑が乾燥海鼠、乾燥鮑、寒天などの海産物を、大量に、しかも高値で買いつけていたことだ。
そうしてまた、真珠が宝石に準ずる高い値段で取引されている事を、目撃したのだ。
横浜、横須賀で取引されている海産物はすべて志摩で産出されているものに他ならない。

京浜地方から帰った幸吉は、明治十二年、大阪と神戸を旅した。
その結果、幸吉は海産物商人として身を立てることを決断したのだ。
翌年、鮑、海鼠、天草などの取引に従事し、実績をあげた。
当時、海外での主要な取引先は、中国であった。
海産物を加工し、干し鮑やイリコ、寒天にすれば、付加価値があがり、値も高くつけられたのである。

明治十四年十月、二十三歳で幸吉は、元鳥羽藩士、剣道師範久米森造の長女うめと結婚した。
うめは、八年の課程を学んでいた。
当時、女子教育は、四年が普通だったので、当時としては、かなり高い水準の教育を受けたという事になるだろう。
実際、うめとの結婚は、きわめて有意義なものだった。
海産物商として、うめは敏腕をふるい、また資金繰りにも油断はなく、まさしく東奔西走して夫の事業を支えた。
しかもうめは、一男四女の母として立派に子供たちを育てている。

長女るいは、海軍中将武藤稲太郎と結婚した。次女みねは東京帝国大学理学士夫人、三女ようは御木本真珠総支配人池田嘉吉夫人、四女あいは東京文理大学名誉教授、文学博士乙竹岩造夫人、末っ子の長男隆三は、第一高等学校から東京帝大文学部、京都帝大経済学部をへてオックスフォード大学を卒業し、ラスキンの研究者として知られている。

幸吉は、三十八歳のとき、うめと死別した。
以後、数人の女性が、幸吉の周囲にいたが、一人も、妻として迎える事をしなかった。
辛苦を共にした妻への、せめてもの手向けだろうか。

『週刊現代』2014年3月29日号より

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