◆斎藤 環『ヤンキー化する日本』角川oneテーマ21、2014年3月
精神科医で評論家の斎藤環氏による対談集である。「ヤンキー」というキーワードで、現下日本に蔓延する反知性主義について考察する。
まず、斎藤氏は「ヤンキー」について以下の定義を与える。
<誰の心にもヤンキーはいる。これが僕の基本的な考え方だ。素直にヤンキースタイルを生きる者もいえれば、嫌悪とともにそれを“否認”する者もいるだろう。しかし僕の見るところ、現代はヤンキー文化のエッセンスが、かつてないほど広く拡散した時代だ。むしろ自明すぎて見えなくなっているとすら言える。
いきなりヤンキーと言われても、とまどう人もいることだろう。あいにく、「ヤンキー」については、いまだ定まった定義がない。Wikipediaの解説は、けっこう簡潔にまとまっているので、その冒頭部分だけ引用して説明に代えておこう。
「ヤンキーとは、本来はアメリカ人を指すYankeeが語源。日本では、『周囲を威嚇するような強そうな格好をして、仲間から一目おかれたい』という少年少女。また、それら少年少女のファッション傾向や消費傾向、ライフスタイルを指す場合もある。口伝えで広まった言葉のため、本来の意味を知らない多くの人々によってあいまいな定義のまま使用されることが多く、『非行少年』『不良』『チンピラ』『不良軍団』など多くの意味で使用される」
「ヤンキー」については、語源や解釈を巡る議論がいまだ決着していないのだが、単に不良性を示すだけの言葉ではない点は確認しておこう。少なくとも、僕がヤンキーと言う場合、それはもはや不良や非行のみを意味しない。むしろ、彼らが体現しているエートス、すなわちそのバッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの“文化”、を指すことが多い。
現代はこうしたヤンキー文化が、かつてないほどの広がりをみせている時代ではないか。確かに本物の不良や非行少年は減ったかもしれない。しかしそのぶん、彼らに特有と思われていた文化的エートスが、非行とは無関係な層にまで浸透しつつあるように見える。>(8~9頁)
安倍晋三政権のエートスは、まさにヤンキーということになる。
ヤンキーの政治的危険度について、斎藤氏と歴史学者の與那覇潤氏のやりとりが興味深い。
<與那覇 ある時期まで「自衛隊違憲論」が根強くあって、「“戦力は、これを保持しない”って書いてあるんだから、違憲だろ。はい論破」みたいになっていたわけですよね。現在の自民党改憲派の憲法の読み方も幼稚だけど、ちょうどそれを左側に裏返したようなレベルで戦後左翼もやってきた。だけど、そこまでヤンキー並みにシンプルな感覚で訴えてきたからこそ、社会党は長きにわたって国会での三分の一を堅持できていたんだと思います。
五五年体制は、ヤンキーがプレイしても大失敗しないようにチュートリアルされたゲームだったんですね。いわば初心者でも操縦できる「補助輪付きの民主主義」だったのを、左のインテリたちがやっぱり補助輪を外さないと本当の民主主義じゃない、と考えて試してみたのが、九三年以降の二十年間でした。そこでいう補助輪とは自民党の一党支配のことだったのですが、それは失敗して、今度は安倍さんたち右のヤンキーが、軍事的な米国依存という別の補助輪を外そうとしている。要するにアメリカの防衛システムに組み込まれて、頭を抑えられているのが気に食わんから、それを外して靖国くらい自由に行ける、戦争も任意にできる国にしようぜと。・・・・・・
佐藤優直伝「インテリジェンスの教室」vol032(2014年3月12日配信)より