[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]
村主章枝(フィギュアスケーター)<前編>「“氷上のアクトレス”の真実」

スポーツコミュニケーションズ

恩師を泣かせた“因縁の地”での優勝

二宮: 今回のソチ五輪では、浅田選手がメダルには届きませんでしたが、シングルのフリーでは圧巻の演技を披露して感動を呼びました。16位と大きく出遅れたSPから、1日でよくあそこまで立て直しましたね。
村主: いろいろな人と話しをして、気持ちを切り替えられたのだと思います。フリーの当日、本番前に佐藤(信夫)先生に喝を入れられたという話も聞きました。それでスイッチが入ったのかなと。佐藤先生は怒ると怖いので(笑)。

二宮: それは意外ですね。温厚そうなイメージがあります。
村主: 私も1999年から数年間、指導してもらったことがありました。普段は本当に優しいんです。でも、1年に1、2回ぐらいドカンと怒られることがありましたね。私に対して、佐藤先生は褒めて伸ばすという指導ではありませんでした。でも、逆に私はその方が安心でしたね。たとえば練習を詰めてやっていくと、精神的に追い込まれることがあります。そうすると、どうしても泣き言を言ってしまうこともありました。そういう時に佐藤先生はガツンと怒ってくれて、引き上げてくれるんです。たぶん、佐藤先生は選手の体の動きや調子を見て、“ここでやらせなきゃいけない”と感じた時は、グッと押すんですよ。

二宮: 限界に挑戦しろと?
村主: はい。ただ必ずしもやらせようとするわけではないんです。ケガするリスクがある時などは絶対無理をさせない。ギリギリのところを見極め、絶対言わなければいけないポイントで、ガッと言う。

二宮: フリーの前、浅田選手に佐藤コーチは、「リンクで倒れたら僕が助けに行く」と言ったらしいですね。過去にも指導していた男子選手にも同様の熱いメッセージを送ったことがあるそうです。村主さんが佐藤コーチのことで印象に残っているのは?
村主: 佐藤先生とのエピソードで、一番記憶にあるのは、2003年に米国のコロラドスプリングスで行われたグランプリファイナルで初めて優勝したことです。コロラドは佐藤先生が現役時代、世界選手権で4位になったところなんです。周囲から「ノブオが表彰台に乗るべきだった」と言われたくらい、その時にすごくいい演技をしたそうなのですが、まだフィギュア界では日本がそれほど世界で認めてもらえていない時代だったんです。そういう悔しい思いを経験した場所で私が初優勝したので、佐藤先生が大泣きしたんです。その涙を見た時に“頑張ってきて良かったな”と。

二宮: 高地ですから、空気も薄いでしょう。
村主: もう、あそこで一生試合したくないと思いましたね(笑)。苦しくて、最後は倒れてしまうんじゃないかと思うほどでした。普段の試合でも、足が動かなくなることはありますが、あの時は酸欠状態になって、手も動かなくなった。それでも終わった後に佐藤先生の姿を見て、私たちがこのような成績を出せるのは、佐藤先生たち先輩方の苦労があってこそだと思いました。昔は海外の選手の見よう見まねで、日本人選手はどういうものを表現していけばいいのかさえもわからなかった。それこそ笑っちゃいけない、真面目にやらないといけないと思っていたそうなんです。実際の競技会はそうではないのに、日本では男子が笑って滑ることも、手を上に向けることさえ許されなかった。そういう時代からの苦労があって、私たちの今日がある。ようやくメダルが獲れるようなポジションまで来ることができて、感慨深かったですね。

二宮: 先人たちの努力が日本人男子初の快挙につながったのですね。
村主: そうですね。先生にはそうしたフィギュアスケートの歴史も含めて、たくさんのことを教えていただいた。だからこそコロラドでの困難も乗り越えることができたのかもしれません。今でもすごく感謝している一番の恩師ですね。