岸見一郎×古賀史健【第2回】自ら「幸せになる勇気」さえ持てれば、人はいま、この瞬間にでも幸せになれる

『嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え』

岸見: アカデミズムの世界には「科学とは価値と無関係でなければならない」という大前提があります。でも、アドラーは、「劣等感」という言葉を「Minderwertigkeitsgefühl」という単語で示していて、これは「価値が少ない」という意味なんですね。「Wert」というのが価値。つまり、アドラーの心理学は「価値の心理学」なんです。

さらに、第一次世界大戦中にアドラーが「共同体感覚」という言葉でキリスト教でいう隣人愛のような目標を掲げるようになったのですが、そんなものは宣教師の言葉であって、科学者の語るべき話じゃないと反発を受けたんですね。実際、このとき多くの専門家たちがアドラーのもとから去っていきました。

古賀: そこは難しい問題ですね。たとえば現在、心理学は「社会科学」に分類されています。しかし、社会科学の起源は芸術であり、芸術の起源は原始的な宗教行為です。絵画や音楽が芸術として独立したのはルネサンス以降の話で、それまでの芸術行為はすべて「神と自分との距離を測るための行為」でした。たとえばルネサンス以前、絵画の大半は宗教画だったし、ダンスや音楽は歌い踊る中でトランス状態になり、神と一体化することが目的だった。

あるいは天文学も、神が司る天体の動きを知るための神事性の強い行為だったものが、コペルニクスの地動説あたりから科学的な学問になっていくし、物理学にもつながっていく。すべての社会科学は、その源流に宗教的な「価値」を含んでいる。

岸見: その流れでいうと、哲学は本来具体的な学問なんですね。「あらゆる条件を加味する」という意味で具体的なんです。たとえば「電線に3羽のすずめが止まっていて、猟師が鉄砲でそのうちの1羽を撃ち落としたら、すずめは何羽残りますか?」。科学はここに「2羽」と回答する。しかし哲学の答えは「0羽」です。銃声に驚く、という条件が加味されたらみんな飛び立ってしまうわけですから。

統計学的に語られた実験心理学の本を読んでもつまらないと思ってしまうのは、一般的な人や事象を論じていることで、「自分はどうか」がわからないことです。一般的な人ではなく、「ほかならぬこの私」のことを知りたい。アドラーはまさにその点を説いていて、強い衝撃を受けました。

古賀: アドラーは、フロイトがつくった精神分析に価値や人間性を吹き込んで、ある意味哲学的なところに立ち返って「人間とはなにか」「幸福とはなにか」といった問題を、精神科医という立場から考えていこうとした人だと思います。だからこそ、古典でありながら新しい。アカデミズムの世界で語られるよりは、普通の人たちが普通の言葉で語り合って、口承で伝えていくような思想なんだろうな、と思っています。

岸見: そうですね。本を読むことも大切ですが、いろんな学びの形がありますから、アカデミズムだけが唯一の学びではないと思います。