奇跡の特効薬「ペニシリン」 誕生を生んだ史上最大のセレンディピティ

20世紀最大の発明はこうして生まれた
佐藤 健太郎 プロフィール

GFP(緑色蛍光タンパク質)の発見で2008年ノーベル化学賞を受賞した下村脩博士は、この研究が様々な幸運に恵まれた結果であることに触れ、「GFPの発見はいわば天の導きのようなものであり、天は私という人間を使って、人類にGFPを与えたのではないかと思うことさえある」と述べている。

ペニシリン発見の歴史を見ていると、この物質もGFP同様、天がフレミングを通して、人類のために与えた恩寵だったのではないか――などと思いたくなる。そのくらいに、ペニシリンの発見には幸運と偶然が重なりあい、作用しているのだ。

 

実用化への長い階段

フレミングはその後もペニシリンに関する研究を続け、この物質が白血球を破壊するものでなく、動物に対しても基本的に害がないことを見出していた。実際、彼はペニシリンの医薬としての使用を試みているが、これはあまりうまくいかなかった。ペニシリンは化学的に不安定で、純粋に取り出すことも、長期間保存することも難しかったのだ。

ずっと後になってわかったことだが、ペニシリンの抗菌作用の源泉はその分子構造、中でもβラクタムと呼ばれる部分にあった。これは、炭素原子3つと窒素原子1つから成る、四角い環状構造だ。βラクタムは極めて珍しい構造であり、天然にこんな化合物が存在するとは、それまで想定もされていなかった。

よく「亀の甲」と表現される通り、炭素などの原子では6個からリングを作り、六角形となった状態が一番安定だ。βラクタムはこれを無理やり四角にねじ曲げているので、何かきっかけがあればすぐに輪がはじけて開いてしまう。言い方を変えれば、化学的に反応性が高いということになる。

細菌は、細胞壁と呼ばれる丈夫なよろいを身にまとうことで、その体を外界から守っている。ペニシリンは、この細胞壁を作る酵素にとりつくと、βラクタム部分が開いて結合してしまい、その機能を失わせる。これがペニシリンの抗菌作用のメカニズムであり、βラクタムの反応性の高さは、抗菌作用と不可分なものだ

しかし反応性が高いということは、裏を返せばペニシリンは不安定で取り扱いにくいということでもある。細菌の取り扱いについてはプロであるフレミングも、化合物の取り扱いは専門外であり、ペニシリンの濃縮・精製は難航した。フレミング自身、ペニシリンの医薬への応用は難しいと考え、生物学における実験用の試薬としての利用に力を入れていた。

破られた壁

陸上競技の分野で、「1マイル4分の壁」と呼ばれる有名な事例がある。1マイル走は欧米で大変人気のある競技だが、長く4分10秒台のタイムが世界記録として君臨していた。4分を切ることは、エベレスト登頂にも匹敵する至難の業とされ、人間では不可能と断言する専門家もいたほどだ。