奇跡の特効薬「ペニシリン」 誕生を生んだ史上最大のセレンディピティ

20世紀最大の発明はこうして生まれた
佐藤 健太郎 プロフィール

しかしこの方法では、今も昔も汚染(コンタミネーション)が問題となる。細菌はそこらじゅうに溢れているから、どこからか目的以外の細菌が入り込んで繁殖し、培養している細胞を圧倒してしまうことは珍しくないのだ。

この時もそれが起こった。フレミングがブドウ球菌を培養しようとしていたシャーレのひとつに、どこからかアオカビの胞子が飛び込み、繁殖していたのだ。しかし彼は、このアオカビが生えた周りに、ブドウ球菌が生えていないことに気づく。フレミングの脳裏を、リゾチーム発見の時の記憶がよぎった。

これは、アオカビが何らかの抗菌物質を作っているからではないだろうか、と彼は直感したのだ。「もしリゾチームの時の経験がなければ、私はこの発見の価値に気づかず、培地を捨ててしまったであろう」と、後に彼は述懐している。

カビの専門家に同定を頼んだところ、このアオカビはペニシリウム属に属するものであることがわかった。フレミングはここから名を取り、抗菌物質を「ペニシリン」と命名する。これがやがて何百万の命を救うことになるとは、フレミング自身も予想さえつかなかった。

彼が最初にペニシリンを発見したシャーレは、他の菌が生えぬよう処置され、現在では大英博物館の展示物となっている。またフレミングの実験室も、セントメアリー病院内にその当時の様子が再現され、現代に伝わっている。

 

史上最大のセレンディピティ

ペニシリンの発見は、フレミングの優れた観察眼あってのことだっただろうが、それにしても一人の研究者が2度、偶然に抗菌物質発見に恵まれるというのは、ちょっと信じがたいくらいの低確率な出来事だ。

もうひとつ幸運であったのは、フレミングはブドウ球菌の培養を終えた後、7月末から家族旅行に出てしまい、長く研究室を空けていたことだ。この期間がなければ、アオカビの胞子がシャーレに飛び込み、十分に繁殖することはなかったかもしれない。

またフレミングが発見したカビは、各種のアオカビの中でも珍しい種類であり、しかもずば抜けたペニシリン生産能力を持っていた。この珍奇なカビが、抗菌現象の実際とその価値を熟知した、ほとんど唯一の研究者――実際、フレミングはこのシャーレを研究所のメンバーに片端から見せて回ったが、興味を示したものは誰もいなかった――のもとに飛び込んだのだ。