『ミッドウェー戦記(上)・(下)』著:亀井宏
「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾。唯一残った「飛龍」の死闘が始まった――機動部隊最後の砦「飛龍」かく闘えり

ミッドウェー島攻略後、同島に進駐するため便乗していた第六航空隊の佐伯義道一飛曹は、邀撃(ようげき)に上がったものの帰る母艦がなくなり、海上に不時着水した。駆逐艦に救い上げられたことは鮮明に憶えているが、それまでの戦闘の記憶は失われているという。

「飛龍」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹とは、平成十三年、真珠湾攻撃六十周年の記念式典が行われた際、ハワイへご一緒した。丸山氏はミッドウェー海戦で、初め島の爆撃に参加し、帰還したのちはただ一隻、無傷で残った「飛龍」の、敵空母に対する第二次攻撃隊(友永大尉指揮)の一員として出撃している。真珠湾での式典を終え、日本に帰る飛行機を待つホノルル国際空港のロビーで、偶然、別の一行で来ていた山口多聞・第二航空戦隊司令官の子息、山口宗敏氏と出会った。宗敏氏は、写真で見る父・多聞少将と瓜二つの人である。人を介して引き合わされたとき、丸山氏の両目から突然、滂沱(ぼうだ)たる涙があふれた。宗敏氏の手をしっかりと握りながら、

「『赤城』『加賀』『蒼龍』の三隻がボーボー燃えているなかでね、山口司令官は飛行甲板に降りて私たち搭乗員の手を握って、仇をとってくれと・・・・・・」

二人の周囲だけ、瞬時に六十年前にタイムスリップしたような気がした。筆者は、傍らでただ立ちつくすしかなかった。

南雲機動部隊とは別に、輸送船団の間接護衛に任じる第二艦隊と行動をともにしていた空母「瑞鳳」戦闘機分隊長・日高盛康大尉は、主力空母四隻がやられたあと、「瑞鳳」「鳳翔」の搭載機全機と、戦艦、巡洋艦搭載の水上偵察機を爆装させて敵機動部隊攻撃に向かわせ、日高大尉の零戦六機(当時「瑞鳳」には、零戦六機、九六艦戦六機、九七艦攻十二機が搭載されていた)がこれを護衛する、という命令の内示を受け、「これは大変なことになったと思いました。しばらくしてその話は沙汰やみになりましたが・・・・・・」と語っている。

彼我の兵力差からみても負けるはずのなかったミッドウェー海戦の敗因については、連戦連勝の驕りとともに、「二兎を追って一兎も得なかった」というのが、もっとも簡明な答えであるように思われる。そして、その大きな要因として屡(しばしば)語られるのが、索敵の不備、なかでも敵空母を発見した「利根」四号機(機長・甘利洋司の発進が遅れ、しかも飛んだコースが予定より大きく外れていたことである。最初に打電した「敵ラシキモノ」との報告にも参謀たちから批判の声があがったことは本書にも述べられている。

だが、「加賀」艦攻隊の一員で、ミッドウェー海戦時には索敵機(九七艦攻)機長として二番索敵線を飛んだ吉野治男一飛曹は、そんな見方を真っ向から否定する。

「『ラシキモノ』という表現については、確認しているうちに撃墜されると元も子もないから、それらしきものを発見したらまずそう通報するように、偵察員は教育されている。『まず第一報を入れよ、その解釈は司令部が考える』というのが、洋上索敵の大前提です」

と。しかも、甘利機のコースが予定から大きく外れていたことについては、甘利の航法ミスではなく、出発前、「利根」の航海士が天測で出して、搭乗員に伝えた出発位置そのものに誤りがあったことが、当時の索敵機搭乗員たちの調査で明らかになっている。

『ミッドウェー戦記(下)』
著者:亀井宏
講談社文庫 / 定価870円(税別)
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「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾。唯一残った「飛龍」の死闘が始まった――

戦争というものが、どれほど悲惨で愚かしいものであるかは、だれよりも、実際に戦って生きのこった人たちが一番よく知っているはずである。そのかれらが、安易に懺悔のことばを口にしないのは、戦後まで生きのびたために知りえたモラルで、自分が生きてきた過去を裁断してはならないと心中深くきめているためであろう。かれらが各自その禁をもうけなければ、終戦後の生活を知らずに死んだ戦友を冒とくすることにもなるからであろう――本文より
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一瞬の隙を衝かれ空母三隻が被弾。日本海軍機動部隊が大混乱に陥るなか、ただ一隻残った「飛龍」の死闘が始まった。そのすさまじき奮戦と壮絶な最期。そして、傷ついた米空母に止めを刺さんとする潜水艦の苦闘。生き残った将兵たちを訪ね歩き、貴重な証言を得た筆者が著す戦記ドキュメントの金字塔。