『ミッドウェー戦記(上)・(下)』著:亀井宏
「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾。唯一残った「飛龍」の死闘が始まった――機動部隊最後の砦「飛龍」かく闘えり

筆者が会うことができたミッドウェー海戦の当事者のうち、おもだった人のエピソードを、亀井氏への感謝とともにここに記しておきたい。

空母「蒼龍」戦闘機隊分隊長・藤田怡与蔵(ふじた・いよぞう)大尉は、本書のなかでは戦後、「某民間航空会社」に就職したとあるが、これは日本航空で、藤田氏はボーイング747(ジャンボ)旅客機の、日本人初の機長となった。藤田氏は、

「零戦と747は、操縦性や着陸時の安定感が似ている」

と、飛行機の操縦を知らないものにはちょっと想像のつかない、禅問答のような言葉を残している。真珠湾攻撃から終戦までを戦い抜き、日航退職後は、元海軍戦闘機搭乗員の集いである「零戦搭乗員会(現・NPO法人零戦の会)」の会長を務め、晩年は世田谷の閑静な自宅で、一人静かに過ごしていた。戦史に関心を持つ若者たちの集いに顔を出し、一言をと求められ、

「諸君、空はいいぞォ!」

と力強い口調で言ったのが、公の場に出た最後になった。平成十八年、没。

同じく「蒼龍」戦闘機隊の原田要一飛曹は、いまも長野県でご健在で、数年前まで幼稚園を経営していた。原田氏は、三機編隊の小隊長としてミッドウェー海戦当日は機動部隊上空哨戒の任にあたり、来襲した敵雷撃機を列機と協同で五機、撃墜している。しかし自分の三番機が敵機の後部旋回機銃による反撃で被弾、撃墜されるのを目の当たりにしたときの辛さと、雷撃機に気をとられている隙に、敵の艦上爆撃機が投下した爆弾に被弾した「赤城」「加賀」「蒼龍」から立ち上る、天に沖する爆煙を見たときの驚きはいまも忘れられないという。

「蒼龍」被弾後は「飛龍」に着艦、友永大尉率いる第二次攻撃隊を見送り、さらに上空哨戒を命ぜられて発艦直後、ふと振り返るとこんどは「飛龍」にも火柱が上がったという。原田氏は、この海戦で南雲機動部隊を最後に発艦した搭乗員となった。

海戦後はしばらく軟禁ののち、空母「飛鷹」に転じ、ガダルカナル島上空の空戦でグラマンF4Fと刺し違え重傷を負う。戦場に復帰することなく終戦を迎えた原田氏は、戦後、職を転々としたのち、郷里の村で自治会長を務めていた昭和四十年、付近に新興住宅地ができたことから、若い住民の要望を受けて託児所、次いで幼稚園を開いた。平成二十五年八月に満九十七歳になった原田氏は、現存の零戦搭乗員のなかで最年長である。

「蒼龍」で、新鋭の十三試艦爆(のち二式艦偵、彗星艦爆)二機を所管していた分隊長・大淵珪三(おおぶち・けいぞう)大尉は、「利根」四号機からの敵発見の報告を受け、一機を触接のため発艦させ、発着艦指揮所で自身も発進準備をしているところへ敵機の爆弾を受けた。爆風で吹き飛ばされ転倒したが、幸い雨衣をつけていたので怪我はなかった。だが、雨衣の背中は黒焦げになっていたという。大淵大尉は戦後、医師となり、本島自柳(もとじま・じりゅう)と名を変え、群馬県太田市で総合病院を経営した。

「加賀」艦攻隊の森永隆義飛曹長は、敵の爆弾が命中したとき、炎のなかで「天皇陛下万歳」を叫ぶ岡田次作艦長の声を確かに聞いたという。巷間、岡田艦長は即死したと伝えられているので、筆者が思わず、

「ほんとうですか?」

と問うと、明らかに機嫌を損ねた面持ちで、

「信じないならそれでいい。でも、私の耳にはいまも残ってる」

と言われ、身のすくむ思いがしたのを憶えている。