第66回 安藤百福(その二)留置場の飯の不味さ、終戦時の街角―「食足世平」の理念に至った原体験

福田 和也

その中、電気がショートをして電気会社が、クレームをつけてきたのだ。
調べると、若者が悪戯をして、蟹を配電盤に突っ込んだと解った。
いずれにしろ、塩の生産は、軌道にのった。泉大津の市民には、ただで塩を配ったという。余った塩は、一部、販売した。
製法が少し変わっていて、塩には色がついていたので、胡麻や海苔を入れて振りかけにする事にした。

昭和二十二年十月。
東京地裁の山口良忠判事が、ヤミ米の購入を潔よしとせず、栄養失調で亡くなった。
そうした、食糧をめぐる厳しい環境を前にして、百福は食糧について、改めて取り組む覚悟をした。

最初に取り組んだのは、病人食だった。
当時は、入院している患者が、病気ではなく、食糧の不足のために亡くなるという、いたましい状況であった。
百福は、大阪市の衛生研究所や農林省食品局長を務めた坂田英一の支援を受け、病人用の栄養食品の開発に着手したのである。

『週刊現代』2014年2月15日号より