第66回 安藤百福(その二)留置場の飯の不味さ、終戦時の街角―「食足世平」の理念に至った原体験

福田 和也

翌日、百福は、妻の仁子と二人で、上郡から満員の汽車にのって、大阪に行った。
大阪駅に出てみると、大ビルとガスビルが残っているだけで、あとは一面、瓦礫の山だった。
道傍には、焼けた遺体が散乱している。
百福の事業の柱だった唐物町の事務所も、天王寺勝山通りにあった航空機部品工場も、すべて焼けていた。

しばし茫然とした後、久原房之助を訪れた。
久原は、山口の人。
東京商業学校を卒業した後、慶應義塾に学び、藤田組で支配人を務めた後、日立鉱山の開業に携わり、久原鉱業を設立した。
立憲政友会に入会して衆議院議員となり、逓信大臣等を歴任した人物である。
百福は、久原に勧められて、土地を買った。当時、土地は安かったという。
とにかく食糧を手に入れる事が最優先だったので、土地を売る人が多かったのである。

「病人食」の開発にまずは取り組んだ

心斎橋では、一軒の店が五千円で買えた。
そごう百貨店の北側、三軒を買い、梅田新道の地所も買った。
不動産を買いあさっている間にも、夥しい飢えた人々や、行き倒れがいた。

「やっぱり、食が大事なんだ。衣食住というけれど、食糧がなければ、芸術も文化もあったものではない」

「食足世平」という、自身の造語を企業理念として掲げた。
泉大津で、生活は落ち着きを取り戻した。豊かな自然が残っていて、海は澄んでいたし、少し沖まで行けば、魚はいくらでも獲れた。

「こんな天然資源をほっておくなんて、もったいない」

当時、運輸省鉄道総局長だった佐藤栄作と、軍需官だった田中龍夫が、百福に相談をもちかけた。

「若者が、仕事もなくブラブラしている。なんとかならないか」

百福と研究小屋 大阪府池田市にあるインスタントラーメン発明記念館には即席めんを発明した研究小屋再現されている

百福は考えた。
食塩を作らせればいいのではないか・・・・・・。
塩がなければ、人間は生きてはいけない。そのために大規模な設備を用意すれば、儲かるだけでなく、国民の生活にも資するだろう。

百福は、泉大津の砂浜に見渡す限りの鉄板を並べた。
陽ざしを浴びて、火傷する程、熱を帯びた鉄板の上に海水を流す。
その作業を何度も繰り返すと、塩分が濃縮され、最後に濃縮液を、大きな釜で煮詰めると出来あがりである。