佐藤健太郎「歴史を変えた医薬品」
第9回 サルファ剤と二つの世界大戦

佐藤 健太郎 プロフィール


 あまりに良好過ぎる結果が信じられず、チームは何度も再試験を繰り返したが、マウスはやはりぴんぴんしていた。副作用といえば、投与からしばらくの間、皮膚が赤っぽくなることだけであった。人類が長らく悩まされ続けてきた細菌感染症に対して、初めて有効な武器を手にした瞬間であった。この化合物は、硫黄(sulfur)を含むことから、サルファ剤と呼ばれることになる。

 後に判明したことだが、当初サルファ剤の作用の本体と思われたアゾ基部分は、菌を殺す作用に直接の関係はなかった。細菌に結合しやすくなるようにと導入された、スルホンアミド部分こそが、抗菌作用の鍵を握っていたのだ。アゾ基を持たず、スルホンアミド部位のみを持った簡単な化合物(純粋サルファ)だけでも高い抗菌作用を持つことがわかり、現在ではこちらのみが使われている。これらサルファ剤が、細菌の増殖に必要な「葉酸」という化合物の合成を妨害することで、抗菌作用を示すことがわかったのは、さらに後のことであった。
 

娘を救った粉

 マウスでいくら素晴らしい効果を示そうと、人間でも同じように効くという保証はない。人体での検証も進められたが、その中にはドーマク自身の娘も含まれていた。
 1935年12月、6歳になる娘ヒルデガルトの手に針が刺さり、中で折れてしまったのだ、針は手術によって取り出されたが、傷口は化膿し、悪化の一途をたどった。高熱で意識が失われ、腕の切断さえ検討されるに至り、ドーマクは決断した。実験室にあったサルファ剤を持ち出し、娘に投与したのだ。数日にわたる投薬の結果、ヒルデガルトの熱は下がり、クリスマスには完全に回復していた。

 1936年には、「赤い奇跡の粉」が世界にその名を轟かせることになる。サルファ剤は、今度は現職のアメリカ大統領であったフランクリン・ルーズヴェルトの息子を、死の淵から救い出して見せたのだ。このことが報道されると、世界のサルファ剤需要は一気に爆発した。元祖IGファルベンはもちろんのこと、各国の製薬企業が似たような構造のサルファ剤を作り、販売し始めた。適用可能な疾患も、連鎖球菌感染症だけでなく、肺炎や産褥熱、髄膜炎などに広がった。1941年には、アメリカだけで数百万人分のサルファ剤が生産され、おそらく50万人の命が救われたと見られている。掛け値なしに、サルファ剤は医学に革命を起こしたのだ。

 1939年、スウェーデンのカロリンスカ研究所は、この奇跡の薬を創り出したゲルハルト・ドーマクに対し、ノーベル生理学・医学賞を授与する決定を下した。その業績を考えれば文句のつけようのない受賞であったが、研究チームを組織し、スルホンアミド基導入という決定的な提案をした、ヘルラインにも共同受賞の資格はあったと思える。
 

敵国を助けた薬

 しかし、世界はすでに暗い時代へ突入していた。すでにポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の口火を切っていたナチ政権は、ドイツ人のノーベル賞受賞を禁じる命令を下していた。ドーマクは科学者にとって最高の栄誉を、涙をのんで辞退せざるを得なかった。彼が晴れて受賞を果たすのは、大戦終結後の1947年のことになる。