『金田一耕助映像読本』でテンション上げてポチりまくり

たとえば『八つ墓村』についての考察で「今宵、八つ墓村を根絶やしにするー要蔵考」というページなどを読んでいると、各バージョンじっくりと比較しつつ観たくなるんですよ。昭和13年の「津山30人殺し」をモチーフにした、田治見要蔵による村民32人殺しのシーンです。浴衣に狩猟用毛皮チョッキ、白いふんどしをヒラヒラさせる山崎努。現実の事件に近い詰め襟の岸部一徳などなど。出で立ちもそれぞれなんですが、ここで注目すべきは「おでこに括り付けた懐中電灯」です。L型懐中電灯を鬼の角のように挿すバージョン、頭の横に棒型懐中電灯を水平に括り付けるバージョン、いろいろあるのですが、いずれにせよ「ちゃんと前方を照らしている」「きっちりと固定するために鉢巻きに工夫が凝らされている」作品をみると「おお!」となりますね。結構そこがいい加減で、鉢巻きにざっくり挿した結果、発光部が天を向いてしまっている作品もあるのです。じつに残念ポイント。暗闇のなか日本刀と猟銃、ダムダム弾のたすきがけで飛び出していくのだから、懐中電灯は重要。しっかり前を向いてなくては要蔵のやる気が疑われるというものです。

そしてこれまたおなじみの「佐清マスク」。これも作品の雰囲気を左右する小道具ですね。ゴムのシズル感の違いや、目・口の開口部の形、色は白か肌色か等々、好みが分かれるところでしょうが、やはり私は石坂版のが怖くて好きですね。目の部分が杏仁型に大きめにくりぬかれているので、白目が血走るのがわかってとてもいいです。あと、「仮面をとっておやり」のセリフの微細な違いとか、言い方とか。

そのほか『悪魔が来たりて笛を吹く』のフルートの曲も、作品ごとに聴き比べたくなりました。古谷一行版はなんと中村八大作曲だったんですねえ。

というわけで、なんだかんだとMOOKでテンションあげて、どれどれと大量に金田一を見ていたら、私も歳を取ったのか、かつてとは違うところにグッと来たりして、それも楽しい体験でした。弥生お嬢様に最期まで黙ってかしずく車夫の小林昭二とか、巴御寮人を守り抜こうとする石橋蓮司とか、リカさんに抱く恋心をそっと胸に秘め続ける若山富三郎の優しいまなざしとか。あるゆる思いを言上げせずに胸にしまっていく、その強さと切なさが、わかる歳になったということでしょうか。

映像化された金田一の世界は、平家の落人とか頼朝の落し胤とかの古い因縁・因習が蘇ってあだをなす、いわば「前近代と近代の対立」とみるのが一般的だと思いますが、数々の作品を観ていると、前近代に近代の鋳型を強引にはめ込んだことで形がいびつになり、高まった内圧で形の弱いところが破裂するという、いわば「前近代と近代の共犯」を感じます。明治以降の新興貴族。戦争で大儲けした成金。血の繋がったものたちを縛り付け、それゆえに引き裂く、家父長制のしがらみ。心を病んだ者をきっちりとした座敷牢に閉じ込めるのも、明治以降の近代化の産物ですし。まあ時代というのは、表面上いかに変わったように見えても、その底流は「新しい酒を新しい革袋に入れる」ようなわけには行かず、老舗のタレみたいに「注ぎ足して注ぎ足して」いくしかないもんなんでしょうねえ。とかとか、酔った頭でぼんやり思いました。

ところでこの本、じつに読みでのあるところがありまして。フィルムが失われてしまい、いまとなっては観ることが出来ない「片岡千恵蔵版」の金田一を、現存する脚本をもとに可能な限り紹介するという記事なんですが。読んでいると千恵蔵が隆としてあらわれるようなのです。観てないのに「きっとこうに違いない」と表情や口調が浮かぶんですから、とんでもないスターですね、言うまでもなく。