『癒しのランニング』著:金 哲彦---ランニング文化の新しい可能性

正しいジャンプができない人は、正しく走れない。小さな子供は弾んだり走ったりすることが大好きだが、大人になって日常でジャンプする人はまずいない。ましてやうつ病で入院している患者さんたちである。いきなり「ジャンプしてみましょう」と促され面食らっただろう。患者さんたちはストレッチの延長として指示された動作ということで、おそるおそるだが少しだけジャンプしてくれた。

この段階から、明らかな変化が患者さんの顔に現れた。姿勢が少し良くなり、表情に〝スッキリ感〟がでてきたのだ。プログラムを始める前、後に東大医学部の教授になった専任ドクターから「抗重力筋運動はセロトニンを活性化させる」という情報を得ていた。この話から、抗重力筋運動=ジャンプ=ランニングという図式がすでにできあがっていた。

ジャンプ運動にはわざと複雑な動きも取り入れていた。なかには失敗する人もでてきて、その人の滑稽なリアクションを見て自然と〝笑い〟がわき起こった。

嘲笑ではなく、いわゆるテレビで芸人が笑わせて起きる無邪気な〝笑い〟である。

私はそのとき、うつ病患者が笑うのを初めて見た。ジャンプで得たセロトニンが、笑いという薬を患者さんの身体に自ら作り出した瞬間だ。

そこから、プログラムは一気に進んだ。次に仕掛けたのが患者さん同士のスキンシップだ。最初はタブー視されていた直接触れ合うスキンシップも、ストレッチという健全な運動に置き換われば抵抗感はまったくなくなる。同じ病気同士、言葉ではなく触れ合うことで閉じこもっていた心が少し開いたかもしれない。心の中まで見ることはできないが、スキンシップをすることで笑いの回数は確実に増えた。

ひと通りのウォーミングアップを終えスッキリした顔の患者さんたちは、三々五々森の中へ走って行く・・・・・・。

現在、日本のうつ病患者は潜在的なものも含めると二五〇万人に達すると言われている。優秀な人が人一倍仕事に打ち込んで頑張る。しかし、頑張りすぎて心がコントロールできなくなり心の病に侵される。ITが発達し仕事の効率が飛躍的に良くなる。しかし、ITに振り回され一日中デスクから離れることができない。皮肉な現実である。

企業ではうつ病による人的、経済的損失が深刻な課題になっている。ハードな仕事が原因でうつになってしまうのはある意味企業の管理責任でもある。「うつ」になってしまった人を救う手段が抗うつ剤のような薬だけでなく、人間が本来持っている身体を動かすことで救いだせないだろうか? また、「うつ」にならないためにも、ランニングなどの運動を習慣化する方法もあるはずだ。

イギリスではうつ病患者へのファーストアクションとして薬ではなくスポーツジムでの運動を処方箋に書く例もあると聞いた。