うつ病の人たちと初めて会ったときのことは今も忘れられない。ぜんぶで一〇人ほどいただろうか、程度の差こそあれ、みな入院治療している患者さんだ。
眼鏡をかけた経理課にいそうな中年の男性。まだ幼い表情の瘦せた男子学生。肌が透き通るように白い美女。白髪まじりのおどおどした仕草の中年女性。スポーツに打ち込んでいたようながっちり体型の若い男性。男女それぞれ、年齢もさまざまである。もちろん、入院に至った経緯や職業など個人情報はいっさい分からない。初対面の人と会う日は緊張するが、その日はいっそう気が昂った。「目の前にいる人たちは心を病んでいる」。
色眼鏡で見てはいけないと思うがつい考えてしまう。心の病になった原因がどんなものか私には知る由も術もない。知ったところで解決してあげることはできないだろう。
初対面の大勢の人の前でも、いつも接している市民ランナーならランニングやレースの話で笑いをとることもできる。しかし、うつ病患者さんたちは一筋縄ではいきそうにない。
興味や関心の見当がまったくつかないので〝つかみ〟が見つからないのだ。なにより、患者さんたちが醸し出す独特の立ち振る舞いに少し戸惑いを感じた。容姿はみなそれぞれなのだが、ある共通点があった。それは、覇気のない特徴のある猫背。そして、焦点の定まらない下向き加減の目線だ。
「元気がない」と言ってしまえばそれまでだが、普通の「元気がない」とはかなり違う。健康な人がたまたま仕事で疲れているとか、風邪を引いて元気がない状態とかと明らかに違う。やや大げさではあるが、あえて言葉で表現するなら、生きることそのものに疲れているという風なのだ。
ランニングコーチとうつ病患者。まったく関係ない、むしろ対極にいる存在のようだが、以前からうつ病には強い問題意識をもっていた。そのきっかけは自殺だ。子供の頃、従兄弟の兄が一二歳で投身自殺した。関わっている大学の選手が東日本大震災の直後に入水自殺した。乗っていた特急列車の車両に飛び込み自殺。そして、毎日のように駅の電光掲示板にでてくる「人身事故」の文字。
都会の人は「人身事故」の文字に麻痺している。電車が遅れることの憤りが先行し、自ら命を断った人の事情などまったく考えない。いちいち考えたら生きていけないのかもしれない。人は人、自分は自分なのかもしれない。しかし、私のように身内に自殺者が出た場合はどうだろう? そこに至るまでなぜ救いの手を差し伸べることができなかったかと自責の念にかられるに違いない。