明仁天皇と接した75年 幼稚園児のころからの級友(明石元紹氏)が初めて明かした

スペシャル・インタビュー
週刊現代 プロフィール

親子別居が皇室のしきたりとはいえ、幼くして親と離れたことで、自分はもっと人間らしく生きたいと願われた。その象徴が、幸せな家庭を築くことだとお考えになられたのでしょう。

ですが、じつは数日だけ、殿下はご両親と過ごされた経験があるのです。終戦の年、疎開先の日光から東京に戻られたときのこと。私も級友たちと一緒に日光から特別列車に乗って、原宿駅の皇族専用ホームに降り立ちました。そのとき殿下とともに見た、一面焼け野原になった東京の光景は、今も忘れられません。2年前、東日本大震災の被災地を訪問された陛下は、あのときの光景の再現のように感じられたのではないかと推察します。

焦土と化した東京では殿下もまた罹災者でした。青山にあったお住まいの東宮仮御所が焼けてしまったからです。そのため殿下は皇居で、昭和天皇、香淳皇后と3日間、朝から晩まで一緒に過ごされました。そして勝手な推測が許されるならば、おそらくこのときの親子水入らずの時間が、のちに美智子さまとの家庭づくりの信念に結びついたのではないかと思います。

終戦翌年の春、私たちは学習院中等科に進みました。中学生になると、同級生同士、あだ名で呼び合うようになりました。豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長の子孫の木下崇俊君は「トーキチロー」、山本五十六元帥の次男坊の山本忠夫君は「ヤマカン」、のちに作家になった藤島泰輔君は「デレスケ」、そして殿下は「チャブ」。チャブとは、蚊取り線香を入れる茶色の素焼きの豚を縮めた言葉。当時の殿下はスポーツのせいでよく日焼けしていたことから付いたあだ名でした。

昭和天皇を介抱した美智子妃

中等科で、殿下は仲間内で特別扱いされず、まわりも敬語を使わなくなりました。ご本人も、その環境に嬉しそうにされていたのが思い出されます。当時の殿下は庭球部に所属し、水泳もたいへんに得意でした。

そんな中等科時代の殿下に少なからぬ影響を与えた外国人教師がいました。私たちが1年生のときに英語教師として来られたエリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人です。殿下の英語教師として招かれたヴァイニング夫人は何気ない日常会話の中で、行動や考えの誤りをそれとなく気づかせてくれたこともありました。

たとえば、こんなエピソードがあります。野村行一東宮大夫が入院したときのこと。ヴァイニング夫人は殿下に「お見舞いをなさいましたか」と聞いたそうです。殿下が「まだしてません」と答えると、先生は理由を尋ねたそうです。「まだ侍従が何も言ってこないので」とおっしゃると、先生はこう諭しました。「お見舞いは誰がするのです? 殿下がしたいと思ったらすればよいし、人に言われてするものではありません」

陛下にとって、この出来事は、ひとつの出発点になったのではないでしょうか。

陛下は、熱心に東日本大震災の慰問活動をされておりますが、今日の陛下の率先実行されるお姿のベースには「自分から行動を起こすことが、上に立つ者として大切です」と説いたヴァイニング先生の教えがあるような気がします。