[プロ野球]
上田哲之「究極の前田智徳論」

スポーツコミュニケーションズ

一切の不純物のない動き

 別の傍証を出そう。10月3日の引退試合を控えた、1日の練習後の会見である(この日もメディアに対して、ことのほか冗舌であったという)。
「(最後の打席では)ゴロを打って走るのだけは避けたいです。内野フライか…できればファウルフライ。あさって、ヘッドが下がりますけど許してください。力負けしますから」(「スポニチアネックス」10月2日配信)
 この「ヘッドが下がりますけど許してください」が秀逸である。しかも彼の美学を間接的に見事に表現している。

 ヘッドが下がってはいけない――これもまた、そんなのバッティングの基本だろう、と言われるかもしれない。もちろん、そうだろう。だが、普通、それを引退試合まで意識するだろうか。ここには、ヘッドの下がるスイングは100%許せない、という徹底した意志がある。その100%を自らに課す生き方を「純粋な打撃思想」と形容しても、あながち的外れではないだろう。

 個人的には、前田という打者は、構えてからスイングするまでの、両足の動きも美しかったと思う。やや両ひざを締めて構え、きわめて自然にステップして、ボールをとらえる。そこには、無駄な動きは一切ない。スムーズで純粋な動きだけがある。それが、ヘッドの立った、一瞬たりとも無駄のない上半身の動きと連動して、スイングとなる。「美しい」というのは、スイングという目的に対して、一切の不純物を排除した、純粋な動作の謂だったのである。

 さらに言いつのれば、「純粋な動きだけがある」ということは、その動作にまつわる世俗的な要素が、おのずから消されていくということだろう。もちろん、現実には日本社会の一隅で行なわれているプロ野球のペナントレースの試合のひとつの打席なのだけれども、前田のスイングには、そのような世俗の条件を脱色し、スイングそのものの本質に観客の視線を向かわせる力があった。

 個人的な話で恐縮だが、亡くなった母親が思わずもらしたひと言をよく覚えている。母は野球などまったく興味をもてない女性だった。その日、たまたま広島戦のテレビ中継をやっていた。画面に前田の打席が映し出された。
「この人は、『すがた』がきれいじゃ」
 無意識に喚起された「すがた」という言葉が、世俗を超越してスイングの本質に到ろうとした前田という存在を、よく言い取っていないだろうか。これが究極の前田論だと、密かに思っている。

上田哲之(うえだてつゆき)
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。