「哲学的な動物」の生存本能 ~人間が、考えることを辞めるとき

寺田 悠馬 プロフィール

そんな「中世」が、今再び訪れていると栗原氏は言う。

そして今、神に代わって人間社会の中心に君臨するのは、デジタルデータ。この様子がすなわち、「デジタル中世」だと言うのだ。

デジタルデータは、我々の年齢、性別、出身地、そして現在位置をも把握して、我々が次に欲しい商品を、次に知りたい情報を、素早く教えてくれる。そして我々と、その周囲の人々の検索履歴、購入履歴、閲覧履歴をくまなく分析し、趣味趣向を言い当て、訪れたいはずの旅行先、聞きたいはずの音楽、見たいはずの映画を、痒いところに手が届く精度で、提案してくれる。

かつて社会の中心に君臨した神がそうであったように、デジタルデータは、人間が自分の生き方について判断を仰ぐ対象と、なりつつあるのではなかろうか。

栗原氏は言う。

「デジタル中世は巧妙に進んで、人間はなにも考えずに、与えられたものを甘受していればよくなる。人間が人間について、自分の頭脳と五感で認識することが、難しくなっていくのではないでしょうか」

デジタルデータに与えられた選択肢から選ぶことに馴れた我々は、やがて提示された情報の範囲内だけでしか、自分の感情を理解できなくなる。「泣ける映画」が観たい時はこれ、「笑える映画」が観たい時はこれ、と教えられるうちに、じつは泣きも笑いもしないが、なぜか心を激しく揺さぶられるような映画を求めていた自分の感受性を、我々は見失ってしまうかもしれない。

人間が、自分の頭で考えることの危険性

人間が自分の頭で考えることを放棄し、ある絶対的な存在に判断を委ねようとする「中世」に、なぜ我々は、繰り返し陥るのだろうか?

不思議なことに、宗教にしても、デジタルデータにしても、人間が判断を仰ごうとする対象は、じつは絶対的なものではなく、人間が自らの手で創り出したものに過ぎない。 

「人間が宗教を創造するのであり、宗教が人間を創造するのではない」

これは無神論を唱えたマルクスの言葉だが、彼は人工物であるはずの神が、いつの間にか人間に代わって善悪を判断し、人間に指図している状況に疑問を投げかけた。同様に、人間はその技術力を駆使してデジタルデータを創り出したにもかかわらず、そのデジタルデータに、自らの思考や感情について教えを請うている。宗教やデジタルデータを創り出す力を持つ人間が、それらの導きを求めるという、立場の逆転がおきているのだ。