第57回 高峰譲吉(その二)
人造肥料ビジネスに取り組むのも束の間、アメリカにわたり、「酒造ビジネス」へ

福田 和也

婚礼の後、すぐに二人は太平洋を横断し、横浜港に帰着した。
新居を本所にかまえた夫婦は、男児二人に恵まれた。
長男の襄吉と次男のエーベン・孝である。
エーベンは、義父の名前であり、孝は大恩人たる益田孝の名をいただいた。
燐鉱石にかかわる事業と共に、譲吉は製薬事業にも触手を伸ばしていた。

千八百万ドルを稼ぎ高峰が大人物と評した米国人

そんな中、譲吉のもとに、ウイスキー・トラスト社から電報が届いた。
米麹のエッセンスの抽出に成功したというのである。
抽出成功の知らせに接して、譲吉は有頂天になった。
自らの仮説が、ついに実験で証明されたということである。

即座に、アメリカ行きを決めた。
しかし、人造肥料会社はどうなるのか・・・・・・。
譲吉の求めに応じて出資をした渋沢は当然、いい顔をしない。
けれど、譲吉にとって自ら企て起こした肥料会社は、もう眼中にはなかったのである。

後年、高峰が死去した際、渋沢栄一は葬儀の席で、かく語ったという。

「人造肥料会社の成績は散々な失敗に帰してしまった・・・・・・これに閉口していたところへ、さらに高峰氏の米国行きがもちあがった。創立から三、四年目にかかったところだが事業が順境に向かうきざしもなく、万事これからと思っていたのが、その矢先に肝腎かなめの高峰氏に逃げられてしまっては、前途がまっ暗である。私はずいぶん、ひどく高峰氏に口説した。極力、彼の米国行きを引き止めようとした。しかし彼は米国との約束があるので、どうしても渡米しなければならぬという」

財界を代表する人格者をここまで困らせた高峰譲吉という人物の値打ちは、いったいどれほどなのだろうか。

益田孝(1848~1938)高峰を支援し、三井財閥を指導した実業家。「千利休以来の大茶人」と評されるほど茶道にも秀でた

サンフランシスコに上陸した譲吉は、鉄道でシカゴに向かった。
シカゴの醸造所での実験結果が良好だったため、ウイスキー・トラスト社は麹による酒造の本格的な工業化をすすめるように、譲吉に求めたという。

イリノイ州のピオリアに大規模な工場を建てることになった。
譲吉の発想は、従来の原料である麦芽を米麹に切り換える、というものだった。

発酵させるデンプンは、穀粒ではなく穀皮(ふすま)を用いる。穀皮は、穀粒よりも格段に安い。
米麹のもつ、高い発酵能力を利用することで、劣悪なデンプンを原料にしながら、すぐれたアルコール発酵が可能になる、というのだ。

トラスト社は、譲吉の提案を即座に理解した。
トラスト社の社長、J・B・グリーナットは、オーストリアの出身。南北戦争に参加し、ピオリアに定住。牛の放牧を手がけた後、ウイスキー製造業に鞍替えした。

ピオリア在住中に千万ドルを稼ぎ、ニューヨークに転居して千八百万ドルの財産を築いた。
ピオリア市のために記念会館などを寄附している。
譲吉は、グリーナットの死後、彼を評して、「自分は米国に暮らし、この間上下種々なる人物にも会ってきたが、彼のような大人物は稀であった」と語っている。

『週刊現代』2013年11月30日号より