プラトンの『プロタゴラス』のなかに、プロメテウスが人間に与えた「火を使う技術」と、国家を形成するための「政治の技術」をめぐる物語が記されていることはよく知られている。しかし、「火を使う技術」の発展とは対照的に、それがないために人間が滅亡しかけたとされる「政治の技術」はその後、どのように語り伝えられてきたのであろうか。
拙著『文明と教養の〈政治〉―近代デモクラシー以前の政治思想』は、その記憶が失われる前の初期近代ヨーロッパ、とりわけイングランドを中心とした〈政治〉の姿を描こうとする。
「政治の技術」(art of politics)という言葉からは、権謀術数や裏切りや策略といったマキャベリズムが連想されるかもしれない。むろん、マキァヴェッリの『君主論』が、単なる「悪の教科書」ではなく、古典や歴史との対話によって育まれた人文主義的な政治学の一つの典型であることは言うまでもない。
しかし、それとは別の、デモクラシー以前における政治の「型」のヴァリエーションとして注目されるのは、ともにヨーロッパ諸国で翻訳され、当時の文明の拠点であった宮廷を中心に広く読まれたカスティリオーネの『宮廷人』(一五二八年)とチェスターフィールドの『息子への手紙』(一七七四年)である。
ルネサンス期におけるウルビーノの宮廷を舞台とした『宮廷人』のなかで、カスティリオーネが強調するのは、「さりげなさ」や「気品」という、他者との交際を可能にする「技」である。しかもそれは、武芸の達人の構えや、ダンスの一歩、歌の一声、絵画の線一本のように「まだ何もしないうちから」相手に実力を伝える、「技とは見えぬ真の技」である。
のちに「マナーがすべてである」と述べた一八世紀イングランドの宮廷人チェスターフィールドによれば、政治エリートであるジェントルマンは、このような、英語でシヴィリティ(civility)とも称される作法を磨き上げなければならない。そして、かつて「文明」と同義でもあったシヴィリティは、他者と共存するための「政治の技術」であり、「文明の作法」とでも言うべきものであった。
ところで、ラテン語のアルス(ars)を一つの語源とする「技術」はかつて、現代の科学技術やテクノロジー、あるいは芸術や美術という意味に分かれたアートとは異なり、古典古代を基礎とする学芸や技芸一般をも広く意味していた。
中世の「自由学芸」(liberal arts)やルネサンス以降の「人文学」(studia humanitatis)に継承されたそれは、人間性を獲得するための広い意味での「教養」でもあった。しかし、それはまた、専門的な知識の獲得や、近代以降に強調されるようになる個人の内面の涵養のみを目指すものではなかった。アルスとしての教養は他者や身体を意識し、政治を含めた実践を志向する。それゆえ、デモクラシー以前の教養は、目に見えるような形で、日々の何気ない振舞いや所作において具現されるものであった。
ルネサンス期から一八世紀までの、初期近代とも言われる時代のヨーロッパにおける政治の舞台は、このような「教養」や「作法」が駆使される各国の宮廷を中心としていた。したがってそれは、ヨーロッパ規模での高度な役割演技やコミュニケーションを可能にし、顧問官による助言や外交使節との交渉、議会での審議などを成立させ、政治という営為を可能にするために不可欠な技術であった。