「意識は、そして科学は“幻想”なの?」大栗博司×池谷裕二、激論!

ブルーバックス創刊50年記念特別対談
大栗 博司, 池谷 裕二 プロフィール

大栗: そうか、僕が温度や空間を幻想と言ったのは、それらが存在しないという意味ではなくて、それらは物理学の現象としてマクロなレベルではちゃんと存在しています。ただマクロなレベルでは本質的なものに見えるけれど、ミクロなレベルまでいくと、もっと本質的なものが別にある、そういう意味で幻想という言葉を使っています。ところが意識については、幻想というよりも、その存在そのものを問うてもいいのではないか、ということになるのかもしれませんね。

池谷: そういうことです。

大栗: たとえば物理学の歴史を振り返ると、存在すると思われていたものが実はなかったということがある。光を波として伝える媒質とされたエーテル、あるいは熱のもとになる粒子と考えられた熱素などがそうです。

一時はそれらの存在が信じられて理論がつくられたけど、実はそんなものはないことがあとになってわかった。つまり、これから脳の理解がより深まっていくと「意識は存在する」という考え方は「エーテルは存在する」「熱素は存在する」と主張しているのと同じようなことになってしまうかもしれないと。

池谷: そこでポイントになるのが、カール・ポパーが提唱した「反証可能性」だと思うんです。反証する可能性をもたない仮説は科学ではないとする考え方で、たとえば「神は存在する」という仮説は反証のしようがないから科学ではない。熱素は反証によって否定されましたが、いま残っている科学の理論は、物理学に限らず、まだ反証されていないだけであって、ヒトが正しいと思い込んでいるにすぎないのではないかと私は思うんです。

大栗: たしかに神ならぬ身ではすべてのことを実験し尽くすわけにはいきませんからね。

数学と科学の違い

池谷: そこできょうはぜひ、大栗先生に伺いたかったのですが、先生のような理論物理学者は、この世界をすべて物理法則によって記述することをめざしているわけですね。しかし、私の本にも書いたように、人間の脳は世界をあるがままに写しとって見ているのではありません。脳というものは実に思い込みが強く、見たものを勝手に歪めて解釈しています。そして私たちは、その解釈から逃れることができません。そんな独りよがりで偏屈な人間の脳が考え出した数式というものが、なぜこの世界の自然現象を案外と記述できるのか。少なくとも、そう見えるのか。そのことが不思議でしかたがないんです。

大栗: それは「数学」の力です。僕ら人間は、もともとは身の回りの数キロから数ミリの範囲の世界のことさえわかっていれば十分、幸せに生きていけた。一三八億光年の彼方にまで広がる宇宙のことや、一〇億の四乗分の一メートルというミクロな素粒子のことなど知る必要はなかった。ところが、そうした非日常の世界までも言語化する能力を、あるときから人間は身につけてしまった。数学という言葉が、それを可能にしたんです。

池谷: しかし、数学は人間の脳がつくりだしたものであって、本当にそれが正しいという保証は、世界のどこにもないわけですよね。元となる公理なんてひどく天下り的です、非常に人間臭い。にもかかわらず意外にも世界を記述できる。私には不思議です。

大栗: それについては、僕こそ誰かに聞いてみたいくらいです(笑)。僕が興味があるのは、数学って、宇宙のほかの星でも地球と同じなのかな、ということです。物理学はこの地球上で起きる自然現象の制約を受けますが、数学者の人たちは、数学の世界とはこの世で起きていることとは別に、どんな世界にも普遍的なものとして存在していると考えている。だとすれば、たとえばアルファ・ケンタウリ星に知的生命体がいたとして、彼らの数学はわれわれの数学と同じなのか。それとも全然違うものなのか。

 
◆内容紹介
私たちは「どこ」に存在しているのか? 物質の基本は「点」ではなく「ひも」とする超弦理論によって、ニュートンの力学、アインシュタインの相対性理論に続く時空概念の「第三の革命」が始まった。現代物理学における究極のテーマ「重力理論と量子力学の統合」にはなぜ「ひも」が必要なのか?「空間が九次元」とはどういうことか? 類のない平易な説明の先に待ち受ける「空間は幻想」という衝撃の結論!
 

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