第53回 ノーベル(その一) ダイナマイトで得た巨万の富が、世界的「賞」として贈与されるとき

福田 和也

農務官僚の息子として生まれた三島は、父のルサンチマンを背負って、大蔵官僚になり、許されて作家生活に入った後も、刻苦勉励に努めた。奔放に振る舞うポーズをとりながら、実は濃やかな配慮を忘れない。
三島は、川端について「この人は、時間が惜しくはないんだろうか」と、思ったそうな。
何しろ、当時、川端の家は、千客万来。
どこの誰とも知れない人が出入りし、慈善財団の頭株とか、骨董屋、画商、芸者、ホステス、歌舞伎役者、政治家の秘書といった有象無象が跳梁している。

川端は、平気でその有様を睥睨して、何とも思っていない。
強面を装いつつも、実はまっとうな常識人だった三島には、やはり到底理解できない存在だったろう。

巷間、一部のメディア関係者の中で、本当は、川端ではなく、三島がノーベル文学賞を獲る事になっていたのに、無理矢理、川端が受賞するように、手を回した、という説が流布した事があった。

たしかに、ノーベル賞を獲れていたら、三島はかなり楽だったろう。
実際、アメリカでも、三島の作品は、売れていた。英語も堪能だったから、国際的な活躍も、十分、期待できたろう。

賀川豊彦(1888~1960) 「貧民街の聖者」と呼ばれたキリスト教社会運動家。日本人で初めて、ノーベル文学賞候補となった

二〇一二年、NHKは、ノーベル賞の選考資料の情報開示をスウェーデンアカデミーに要請した。
すると、かなり面白い事実が現れた。

はじめて日本人として、ノーベル文学賞の候補に挙げられたのは、社会運動家の賀川豊彦だったそうな。
賀川は、神学生時代に神戸市葺合の貧民窟に住みこんで伝道生活にはいり、プリンストン大学に留学、貧民窟にもどってベストセラー『死線を越えて』を出版した人。
賀川は、二度、ノーベル賞候補になっていたそうな。

その後、谷崎潤一郎と詩人の西脇順三郎が候補に挙げられたらしい。谷崎ならば、大方の日本人は納得しただろう。
けれど、良い翻訳者を得られず、谷崎文学のヨーロッパへの普及には、かなり時間がかかった。

川端が幸運だったのは、戦前すでに『伊豆の踊子』がドイツで翻訳されており、戦後早い時期に英訳も出た事だ。
一九五六年には、最高傑作である『雪国』が、アメリカの文芸評論家、サイデンステッカーの訳で上梓されている。

サイデンステッカーは、戦争中に日本語を学び、翻訳家として、活躍した。
川端の受賞は、名翻訳家を得たからこその快挙だと云えるだろう。
かつて井上靖が、ノーベル賞を獲るのではないか、という噂で文壇が持ちきりの時期もあった。

だが結果として、井上靖は、候補には挙げられなかった。

『週刊現代』2013年11月3日号より