第52回 長尾よね(その三) 戦争での被災と巨額の財産税―一代で築いた財産を、一代で使い果たした

福田 和也

収集品が次々と処分されて

しかし、よねは、その生活を変えなかった。
相撲熱は冷めず、若乃花を贔屓にした。
豪華な廻しを幾つも贈った。

「勝った時には、誰でも褒めてくれますが、負けた時、ああいい相撲をとったと褒めて下さるのは、長尾の奥さんだけでした」と、若乃花は語ったという。(『女傑――若木を育くむ長尾米子――』白洲正子、『小説新潮』昭和三十四年二月号)

人気絶頂の力道山も、桜新町に現れたという。

昭和二十六年、欽彌は、株式会社ナガ製薬を設立した。
駆虫剤「アスキス」を製造、販売した。
敗戦後の不衛生な環境で、蛔虫など寄生虫が蔓延している事に目をつけたのである。
駆虫剤は、よく売れた。

しかし、衛生環境が向上すると、売り上げは落ちていった。
昭和二十七年十月、ナガ製薬の工場が爆発事故を起こした。
薬剤を製造中、揮発性の薬剤に引火したのである。
怪我人が出た。

宜雨荘(ぎうそう)庭園東京・世田谷区に10年余りかけてつくられた長尾夫妻邸庭園。岩城亘太郎が造園を手掛けた『日本の庭園』より

翌年、ナガ製薬は倒産した。
それでも、欽彌は事業を諦めなかった。

銀座八丁目に事務所を構えて、新しい薬剤を売り出そうと、虎視眈々と歩きまわっていた。

大豆蛋白の栄養効果に目をつけて、『ミートン』という薬剤を売りだした。
しかし、『ミートン』は、売れなかった。
大豆蛋白は、欽彌が失敗した後、十数年してから、薬学で注目を集め、いまや隆盛を誇っているという。

よねの収集品は、処分された。
駿河台の荻原という骨董商の手で、次々と売られていった。
長沢蘆雪の『月夜山水図』は頴川美術館に。
高然暉の『双幅図』は、国立博物館へ。
『赤絵金襴手瓢形瓶』は、安宅コレクションに収まった。

晩年、よねは、糖尿病を患い、都心のホテルを転々としていた。
結局、ホテル暮らしは、肌にあわず、鎌倉山の別荘にもどった。

昭和四十二年二月八日午後九時、よねは死んだ。
その日、もっとも気のあった友達である『桑名』の女将が、見舞いにきてくれた。

「久しぶりにビール呑もうか」
と、よねは云ったそうな。

そうしてコップを合わせ、一口飲んで、「うまい」と、云って倒れた。
七十九歳だった。

(本稿の長尾よねに関する記述は、白崎秀雄氏の『当世畸人伝』に多くを拠っています)

『週刊現代』2013年10月26日号より