日本で服役中に韓国に移送され、韓国の刑務所で服役していた許永中受刑者(66)が、9月30日、仮釈放された。
戦後最大級の経済事件といわれたイトマン事件、約180億円の手形を詐取した石橋産業事件の公判中に失踪、99年11月に収監されて13年余の歳月が流れた。
「最強の仕事師」と評された許氏の"手腕"は忘れられ、1年余の仮釈放の期間中は、間違いなく日本には帰ることが出来ないから、許氏はますます過去の人となる。
そこで、改めて許永中とは何者かを考察してみたい。
私も含めて、許氏と接触したことのある人の多くが、その巧みな話術と、強面に出ることもあれば、一転、邪気のない笑顔に変わる硬軟取り混ぜた人心収攬術に絡め取られた。天性の"人たらし"だった。
大学中退の元不良で、まともに働きたくはないが、カネは欲しいというありがちな野心を抱く若者は、「在日」と「同和」という2つのタブーを利用、土建屋として成功を収める。「在日」ではあるが「同和」ではない。そこは「差別される者同士」という奇妙な理屈で乗り切った。
次に、政界、経済界という大人社会に食い込んでいく。最初のステップボードは「関西のフィクサー」と呼ばれた野村周史。野村の息子と親しくなり、いつの間にかその父親で実力者の周史に可愛がられるようになり、「野村姓」を名乗ることもあった。
以降、周史の縁で、大物政治家の渡辺美智夫、岸昌大阪府知事(肩書は当時、以下同)、東京の「政界フィクサー」として知られる福本邦雄の知己を得る。
許氏の凄いところは、面識を持った大物を、確実に自らの人脈にしていくことだった。
相手の望むものを与え、美食に美酒を用意する。悩みがあれば聞き、それが暴力団がらみ、総会屋がらみなら排除する。山口組系古川組の先代組長とは肝胆相照らす仲で、「力の分野」は、許氏が最も得意とするところだった。