◆「新潮45」編集部編『凶悪――ある死刑囚の告発』新潮文庫 2009年
日活が創設百周年を記念して抜群に面白い映画を作った。9月21日に全国公開される白石和彌(しらいし・かずや)監督の「凶悪」だ。この映画の原作が本書だ。本書の文庫版解説は私が書いている。「映画と原作のどちらが面白いですか」とよく尋ねられるが、双方にそれぞれ異なる面白さがある。
先日、試写会に行ったが、文字通り背筋が凍りついた。エンターテイメント性の高いサスペンスドラマであるとともに社会に訴えようとするメッセージがある。
月刊誌『明潮24』の編集部に小菅の東京拘置所に収監されている元暴力団組長の須藤純次(ビエール瀧)から手紙が届く。実は、現在、裁判にかけられている以外にも、凶悪な殺人を行ったという話だ。編集部の藤井修一(山田孝之)が須藤に会いに小菅に行く。
映画に出てくる面会室が本物そっくりだ。筆者は、02年5月14日から03年10月8日まで、小菅ヒルズの独房に512泊した経験があるが、この映画で描かれた拘置所の様子は、ほんものに酷似している。
須藤の話によると、悪魔のように頭が切れる「先生」こと木村孝雄(リリー・フランキー)という凶悪犯がいる。「先生」の指示に従って、須藤は保険金殺人を実行した。「先生」を何としても逮捕し、死刑にして欲しいというのが須藤の依頼だ。「先生」の犯罪が摘発されれば、それに関与した須藤も裁判にかけられる。当然、「先生」は犯行を否認するであろうから、裁判は長引く。そうすれば須藤の死刑執行も先延ばしになる。
少しでも生き延びたいという本能から、須藤は別件の殺人について告白したのか。それとも「先生」に対して復讐したいのか。あるいは真実をすべて明らかにしてから須藤は死刑になることを望んでいるのか。そもそも須藤の話は嘘でないのか。
藤井は取材を積み重ねるうちに須藤の告白は真実であると確信する。藤井にとって須藤は情報源であるとともに、憎むべき犯罪者だ。同時に直情的だが内妻や子分をたいせつにし、自己犠牲的な須藤に無意識のうちに惹かれていく藤井の姿が見事に描かれている。
映画では、電気ショックやスピリタス(純粋に近いアルコール)の飲酒を強要して、高齢者を殺すことに良心の痛みをまったく感じない犯罪者の姿をリリー・フランキーさんが見事に演じている。
この事件は、原作に記された「先生」が絡んだ7つの疑惑のうちの1つ(ケース3)にすぎない。
<[ケース3]
茨城県南部の町でカーテンなどを扱うインテリアショップの経営者。会社経営に行き詰まり、数千万円の負債を抱え込む。息子が勤める不動産関連会社の社長からも借金をした。この社長の知人に、ある不動産ブローカーらがいた。このブローカーのもとで雑用をすることになり、水戸市内にある事務所で、半ば住み込みのような形で起居することになった。ブローカーからは、“カーテン屋”とか“じじい”などと呼ばれ、バカにされていた。
その後、茨城県笠間市の山の中で、変死体で発見される。しかし、警察は病死か自殺として事案を処理した。享年六十七。死亡時、約八千万円の生命保険に加入していた。>(12~13頁)
原作で、「先生」(三上静夫)、須藤(後藤良次)の常軌を逸した残忍さが以下のように描かれている。
<「よし、もういい」
そう言うと、三上はリビングのサイドボードにあった透明の液体のビンをとりだした。ラベルにはアルコール度数九六度の表記がある。三上は、左手で栗山さんを起こすと、あごの部分をつかみ、ポーランド産で、“世界最強の酒”と謳われる、ウォッカ「スピリタス」をビンごと彼の口に突っ込んだ。
「この借金まみれの居候が」「自殺しろ」「早く死ね」
あまりのアルコールの強さに栗山さんはむせかえり、ウォッカを吐き出した。そしてまた床に倒れ込んでしまう。
三上は一度、ソファにもどり、煙草を一本くゆらせた。それからおもむろに立ち上がると、もう一度、左手で栗山さんの首をもって、体をもちあげた。そして、右手でウォッカのビンを握ると、ふたたび栗山さんの口の中にぶち込んだ。
透明の凶器が、スーっと栗山さんの体内に入っていく。五〇〇mlのボトルに入ったアルコール度数九六度のウォッカは、その半分以上が一気に、哀れな被害者の体内に流し込まれたのである。栗山さんはその場に倒れ込むと、まったく動かなくなってしまった。時間は、午前二時を回っていた。>(345頁)
ところで、映画は原作にはない、仕事にのめり込む藤井の家庭が崩壊の危機に瀕する様子が描かれている。認知症が進行する藤井の母(白川和子)とその介護に消耗していく妻・藤井洋子(池脇千鶴)の関係が、映画の奥行きを深くしている。
「先生」は、高齢者を保険金詐欺の標的として、次々と殺していく。仕事が忙しいという理由で、実の母の介護から逃げている藤井も、高齢者の名誉と尊厳について、考えていない。高齢者を食い物にする「先生」の犯罪を告発する側にいながらも、藤井も無意識のうちに高齢者(実母)の死に手を貸しているのではないかという、白石監督のもう一つのメッセージが静かに伝わってくる。