試合前「最後まで攻め続ける」と話していたが、それも全うできなかった。
いい投手はバントで崩す
光星学院はそこまで二塁手を兼ねる城間竜兵と、エース番号を背負う金沢湧紀の継投で勝ち上がってきた。大阪桐蔭打線の弱点はインコースだと判断していた仲井は、そこを突ける城間を先発させようと考えていた。しかし土壇場で金沢を先発させた。レギュラーメンバー中、金沢が唯一の青森出身だったからだ。しかも地元、八戸生まれである。
「金沢がいるだけで、地元の盛り上がりはぜんぜん違う。だから金沢が投げて優勝したら、もっと喜んでくれるだろうな、と」
ならば、それを口にしてもよかった。そうすれば光星に風が吹いたかもしれない。結局、光星は大阪桐蔭のエース藤浪晋太郎の前にわずか2安打に抑え込まれ、3-0で完敗した。
光星は今、校名変更にともない選手集めも東北中心にシフトしている。現部員の約3割が青森出身者だ。
「同じ日本なのに外人部隊と言われるのはさみしい。高校野球は何かという答えはわからないけど、もっと地域で応援してもらえるようなチームにしたい」
勝利か、郷土性か—。その間で揺れながらこの夏も「答え」を探し続ける。
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前任者から最初に受けたアドバイスは、進退伺いの書き方だった。
「半分は冗談だったんでしょうけど、書いとけ、と。それぐらいの気持ちでやらないといけない学校ですからね。それに、負けても進退伺い出せば『もうちょいがんばれ』ってチャンスくれるからと笑ってました」
'11年夏、恩師の木内幸男の後を継ぎ、コーチから監督に昇格した佐々木力がそう思い出す。半世紀を超える計58年間にも渡って監督を務め上げた、いわば木内流処世術でもあった。
佐々木は木内が取手二高時代、'84年夏に初めて全国優勝したときの「2番・セカンド」でもある。
佐々木は最初は監督の依頼を断った。
「木内の後ですからね。自分ではあまりにも荷が重いと思った」