末期がんと闘った医者の告白 最後の最後、なぜ医者が信用できないか分かった

人は必ず一人で死んでゆく。代わりになってくれる人はいない。それはどんな名医であろうと同じことだ。自らが患者になったとき、彼らは何を信じて不治のがんと向き合い、そして闘ったのか。

患者になって気がついた

〈私はまもなく根治の望めない、左大脳腫瘍の手術を受けなければならない。今、私に突き付けられているのはがんの終末期といわれるステージ4で、生命の危機という面からすれば、なにか医学的にとても幸運なことが起こるとは望めないように思われる。外科手術、多種の放射線療法、さらに他の高度治療を何度も繰り返すのだが、死の過程というものがいまだに正確に理解できないでいる〉

昨年夏、一人の名医がこんな言葉を遺し、世を去った。神戸市・みどり病院創設者であり理事長を務めた、額田勲氏(享年72)である。

冒頭に引いたのは、彼が末期がんを患ってから記した手記の一節だ。さらに額田氏は、こうも記している。

私は患者に接するときも、いつも死について深く考えてきたつもりだった。だが今、自分が死に直面してみると、70年の人生で得たものは何と乏しかったのかと思う。そして、激しい自己嫌悪に陥ってしまう—。

額田氏は、がん患者を中心とした終末期医療の専門家であり、生命倫理の研究者としても知られる。診療と病院経営の傍ら、講演、著書の執筆、後進の指導に多忙な日々を送っていた。

医師として、数多くの末期がん患者の苦しみに耳を傾け、安らかに逝けるよう手を尽くしてきた額田氏。その彼にも、がんは容赦なく牙を剥いた。

「はじめは、'05年に見つかった前立腺がんでした。ただ、このときは手術によってかなりよくなったと本人も周囲も考えていたし、転移の可能性は残されていたものの、すぐに病院の仕事にも復帰されました。

しかし、それからおよそ5年が経った'11年に、脳へのがん転移、すなわち脳腫瘍が突如発覚し、余命半年という宣告を受けたのです。しかも病巣は、言葉を司る左脳だった。書きものが好きだった額田先生にとって、残酷な運命だったとしか言いようがありません。

額田先生は、われわれ後輩をよく飲みに連れて行ってくれる親分肌で、社交的な人だった。しかし、脳腫瘍が見つかってからは、親しい知人でも面会謝絶。弱った自分を見せたくなかったのかもしれません」

こう語るのは、額田氏の20年来の弟子であり友人でもある、医師の村田敬氏だ。村田氏は、額田氏が闘病中に綴った未発表の遺稿を一冊の本にまとめた。今夏、ごく少部数に限定して刊行する予定である。

今回ここで紹介するのは、その遺稿の一部だ。最後の半年間、日ごとに混濁してゆく意識の中で、額田氏は末期がんの苦しみ、そして死への恐怖を赤裸々に告白している。

〈私はずいぶん多くの患者さんの死に対応してきて、どちらかといえば死に慣れている部類の人間である。死と遭遇した場合にどう受け入れていくかを、ひたすら考えてきた。

しかし、精神的な苦悩に対してはなんと答えてよいのかわからない場合がいまだに圧倒的で、(中略)そして今、自分が患者としてそれらの苦悩を厳しく突き付けられる局面に遭遇して、不安、恐怖に向けてそれらしい対策をほとんど見つけることができない〉

終末期の患者に日々向き合い続け、患者からも厚い信頼を寄せられていた名医。それでも、自らの死を前にすれば一人の人間にすぎない。医者としての経験やこれまで培ってきたことも、末期がんに対しては悲しいほど無力だった—彼の最晩年の文章からは、そんな無念がにじみ出るようだ。

額田氏の二男で、現在みどり病院の経営に携わる鋼志さんは、父が抱いていた思いについてこう語る。

「私たち家族に対しても、父は最後まで死への恐怖や弱音を口にしませんでした。ですから、亡くなった後、遺稿や日記帳にそうした内容が書かれているのを知ったときは、意外でした。

私が5歳の頃に病院を開業して以来、父は家庭を顧みず仕事に没頭してきました。しかし、脳への転移が分かってから亡くなるまでの間は、私や母を毎日のように食事に誘うようになったのです。父は決して沢山喋るわけではありませんでしたが、きっと心を紛らわしたかったのでしょう」

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