【第32回】はこちらをご覧ください。
「編集長は僕が嫌いなんですね」と言い捨てて泣きながら会議室を飛び出し、3日間も欠勤した後、S君はようやく出社してきた(前回参照)。
彼の教育係を命じられた僕は、「俺と同じASD(自閉症スペクトラム障害)を持っているらしいこの厄介な後輩ディレクターを、どう扱っていけばいいのだろう」とあれこれ考えてみたが、有効な対策を思いつく前に、彼はまた一つ"やらかして"しまった。
S君が入社して2ヵ月も経とうというのに、実は、僕たちの職場では彼の歓迎会をまだ行っていなかった。それはこの春、会社の制作現場が、諸々の事情で異常に忙しくなって、スタッフたちに時間的余裕がほとんどなくなってしまい、とても会合を持つなどという雰囲気にならなかったためである。しかも、S君が前述の企画会議でのトラブルを起こしたため、改めて歓迎会を開こうという雰囲気にはさらになりにくくなった。
それでも、先輩のEさんという記者から、「このままじゃSがちょっとかわいそうだろ」という声が出た。E記者は、やはりS君がディレクターとして優れたセンスと技術の持ち主であることを見抜いていた。それで、全員がもっとS君とのコミュニケーションを密にして、彼を戦力として活用しなければならない、と思っているようだった。
「Sがこの前、泣きながら会議室を出て行ったのも、もちろん一番悪いのは本人だけど、俺たちが十分なコミュニケーションをとってやらなかったことも一因だと思うんだよな。このままだと、あいつ、ずっと孤立しちまうかもしれないぜ。
そうなったら、S本人もかわいそうだし、この職場にとってもいいことは何一つない。まずは、歓迎の飲み会でもやってやろうよ」
職場の忙しさが峠を超えた時期でもあり、誰にも異存はない。僕も「本来ならそういうことは、教育係である俺が思いつかなきゃいけないことなんだよな」と少し反省した。EさんはさっそくS君のところに行って、
「遅くなっちまったけど、お前の歓迎会をやることにしたよ。まずは主賓であるお前の予定を聞かせてくれ。再来週のどこかでというのはどうだ?」
と尋ねた。ところがS君は嬉しがる様子もなく、むしろ驚いているようで、ポカンとした表情をしている。やがて、彼はぼそぼそとこう答えた。
「再来週はダメです」
「ダメ? どの曜日もふさがってるのか?」
「はい。再来週は毎晩、見たいテレビ番組があるんです」
「・・・」
あまりに意表を衝いた返答に、Eさんは明らかに一瞬、ムッとしていたが、かろうじてその感情を呑み込んだらしく、再びこう聞いた。
「じゃあ、その翌週はどうだ?」
「別にいいです」
「ん? 『いいです』って、何がいいんだよ?」
「僕の歓迎会とか、別にやらなくていいってことです」
「何だと? お前をチームの一員として歓迎し、親睦を深めるための会をやろうというんだぞ。飲み会が好きじゃないのか?」
「好きじゃないです。ていうか、嫌いです。飲み会をやりたいのであれば、僕以外の皆さんでやってください」
周囲で聞き耳を立てていた同僚たちが、いっせいに息を呑むのがわかった。僕も緊張した。人情家であると同時に短気なことでも有名なEさんが、「何様のつもりだ! 失礼だぞ!」などとS君を怒鳴りつけるのではないかと思ったのだ。
ところがEさんは必死で自制したらしく、くるりと振り返ると、無言で自席にスタスタと戻っていった。おそらく、「こんな若造相手に怒りを爆発させたりしたら、俺の価値が下がるだけだ」と判断したのだろう。
こんなことがあれば、当然、周囲は一気に白け、気まずい雰囲気になる。なのにS君は何も感じていないらしく、きょとんとしていた。その後、今に至るまで、EさんはS君に一切話しかけようとせず、それどころか、目を合わせようともしない。