大正新版画とは、浮世絵(Ukiyo-e)と共に(Shin-hanga)として、世界的に評価の高い日本固有の版画芸術です。近年亡くなったアップル社のスティーブ・ジョブズ氏も熱心な新版画のコレクターでした。
その大正新版画盛衰の歴史の陰に、渡邊庄三郎というひとりの版元の存在があったことを知ったのが『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』を書くきっかけでした。
貿易商として浮世絵に触れ、その美しさに心を奪われ、浮世絵の再興を夢見て新版画を立ち上げた版元・渡邊庄三郎とはどのような人物だったのか。いかなる性格と才能の持ち主だったのか。どういう経緯で版元になったのか。多くの図録や論考に渡邊庄三郎の名前は散x見されますが、彼自身について記されたものは僅かでした。
今回、倉庫に眠っていた渡邊家の資料と遺品のなかから、現当主の渡邊章一郎氏が庄三郎の関東大震災以降の日記を発見し、門外不出であった日記の閲覧を許可して下さったことが本書執筆の大きな原動力になりました。
庄三郎は几帳面に日記を書く人で、大震災と戦争中の空襲によって大きな被害に見舞われた数年間はさすがに空白になっていますが、庄三郎と家族の動静を知るには十分でした。しかし彼の日記の特徴は、一〇〇パーセント行動の記録であって、感慨や感想など感情を表現することがないことです。何をした、何があった、と箇条書きにするばかりで、何故そうしたか、何故そうなったかについては書かない。
現代人が想像する日記文とはだいぶ異なりました。店員Mの使い込みが発覚したときも、どういうやりとりがあって「事無し」としたのか書かれていない。判読不可能の箇所もありますが、日記はこんな調子で綴られています。
《・八月八日 半晴れ M氏のこと注意
本を読み終わる
朝食とんかつ 社拂の割当計算する
店の帳場に昨年と本年 四百円以上 M氏が無断で
持って行く 一番困るのは小林へ拂う地代二カ月
精算で困る 帳場の方を見張る
萬國教育会議に参会の印度人夫婦、古版画と新しいのを
買ってゆく
・八月九日 晴れ 店則を作る 実行すべし
朝、霊夢 一升瓶二本 空っぽになっている
銀座へ行ってM氏に小林の地代の事 仮出金が重なり過ぎる事
を言ふ 二カ年間賞与を貰わぬと云ふ
余は其人・・ 事無し 銀行より・円下げて借金返済と拂分に充当す
ブラウン氏軽井沢へ明日行く為め版画と額揃えて上げる》(原文ママ)