アダム・スミスといえば、『国富論』(一七七六年)の著者で、市場経済というものは自由に放任しておきさえすれば、自ずと釣りあいのとれた発展を実現する力や作用をそなえている、という理論を展開した経済学の創設者だというイメージが強い。
富国強兵政策の一環である重商主義的な産業保護・育成政策からの解放だけでなく、商人や製造業者による自己利益確保のための独占形成をも、消費者の利益なくして何のための生産か、と問い直すことによってバッサリ切りすて、労働者はより高い賃金を、資本家はより高い利潤を、地主はより大きな地代を自由に追求しさえすれば、結果的に、最も効率的な発展が実現されるという理念的なモデルを提起したことは、まぎれもない事実である。
しかし、スミス自身は、『国富論』よりもむしろ『道徳感情論』(一七五九年)を誇りにしていたようである。スミスの逝去は一七九〇年の七月のことだが、先立つ一七八八年五月から一年以上のあいだ、「全力を傾けた」改訂と大きな増補(第六部を加えた)の作業を断行し、ようやく死の二ヵ月前に第六版を手にした、という事実が如実に物語っている。
『国富論』が自己利益の自由な追求を正当化したのは確かだが、しかし、そもそも人間は「交換性向」を生まれつきもっており、他人が欲しがるものを提供する努力をつうじて自己利益を実現できるような社会、つまり分業の社会を前提にしていた。『道徳感情論』も、その点では変わりがなく、人間は利己的であると同時に「他人を思いやる」動物だという理解を前提にしている。だから冒頭でこう述べるのである。
いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない。
ここには、人間が本質的に利己的であること、つまり自己愛の持主であることは当然のことであるが、同時に「他人への関心」、つまり他人の幸福を自分自身にとってかけがえのないものとして大切にする、という社会的動物としての人間の特徴に対する深い洞察がある。
「人間の心的傾向を大分類すると、自己愛と他人への思いやりになる」というスミスの指摘のなかには、自己愛は自分自身の身体を維持するために不可欠な心の一部であり、他人への思いやりは社会を作りあげていくために不可欠な心の一部である、という主張が鋳込まれている。
だが、社会を形成し維持していくために、他人への思いやりが不可欠であるとはいえ、それだけでは十分でない。親子、家族、企業組織などが社会として成り立っていくためには、程度はともかく、一定程度まで構成員の間で心や感情の一致、つまり集団としての一体感が生みだされる必要がある。しかし、個人間の心や感情の「一致」はどのようにしてなされるのであろうか。スミスは、「共感」をつうじてであるという。
哀れみや同情は、我々が他者の悲哀に対して抱く一体感を示すのに適した言葉である。共感という言葉は、おそらく元来同じ意味だったが、今日では、何らかの激情に対する一体感を表すために用いられる、と言っても過言ではないだろう。