内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力
スーザン・ケイン(著),古草 秀子(翻訳)

〜はじめに――内向型と外向型 対照的な二つの性格について より抜粋

 もし、三分の一から二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向型のふりをしているからだ。隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには、自分自身までもすっかり騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が転がり込んで時間を好きに使えるようになったなどで、ふと自分の本来の性格に気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない人が自分は内向型だと思っているとわかるだろう。

 多くの内向型がそれを自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型の人間を理想とする価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的でつねに先頭に立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を持つことが理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、用心よりもリスクを冒すことを、疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重すると言いながら、ひとつの特定のタイプを賞賛しがちだ。その対象は「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、テクノロジー分野の才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも例外で、そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている人たちだけだろう。

 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、残念な性格と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす内向型の人々は、男性優位世界の女性のようなもので、自分がどんな人間かを決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的であるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきだ、と大半の人々が感じている。

 外向型の人間を理想とすることについては、この問題にだけ集中した研究はないものの、数多くの研究で言及されてきた。たとえば、おしゃべりな人はそうでない人よりも賢く、容姿がすぐれ、人間的に魅力があり、友人として望ましいと評価される。話す量だけでなく速さも重要だ。話すのが速い人は遅い人よりも有能で、望ましいと評価される。同じ力学は集団内でも適用され、会話の多い人は少ない人よりも賢いと判断される――口達者だから名案を考えつくという関連性はまったくないのにもかかわらず。内向的という言葉そのものさえ、汚名を着せられている。心理学者のローリー・ヘルゴーの非公式な実験によれば、内向型の人は自分の外見について問われると、「緑青色の瞳」「異国的な」「高い頰骨」といったように、生き生きとした言葉で描写したのに、内向的な人間について一般的な特徴を表現してくださいと指示されると、「扱いにくい」「中間色」「肌荒れやにきび」といったありきたりで否定的な表現で答えた。

 だが、外向型の人間を理想とする考えを、そのまま鵜吞みにするのは大きな間違いだ。進化論からゴッホのひまわりの絵、そしてパソコンにいたるまで、偉大なアイデアや美術や発明の一部は、自分の内的世界に耳を傾け、そこに秘められた宝を見つけるすべを知っていた、物静かで思索的な人々によるものだ。内向型の人々がいなければ、つぎのようなものはどれも存在しえなかった。