昭和三十五年、是川銀蔵は証券界に、復帰した。この年は、戦後日本の転換点ともいうべき年になった。
岸信介総理は、日米安保条約の改定を強行した後に退陣し、後継の池田内閣は、所得倍増計画を発表して、政治の時代から経済の時代へと日本の進路を転換した。
その政策の目玉が、いわゆる「国民所得倍増計画」であった。
実際には「所得倍増計画」は、岸とそのブレーンたちが基本的なプランを策定したものであり―満州におけるプラントの設営や、鉱工業の生産性増進などは、商工官僚だった岸が仕切ったものである―本来ならば岸が総理として采配をふるう筈であったが、安保騒動のために、その役割を果たす事ができなかった---。
池田は、岸がデザインしたプランを忠実に実行して、成功を収めたのである。
所得倍増計画は、さまざまな施策を含んでいたが、その中でも注目を集めたのが、全国各地に重工業のコンビナートを建設する、という計画だった。
銀蔵は、直感したという。
「地価が暴騰するに違いない・・・・・・」
コンビナートで働く人々は、その周辺に住む事になるだろう、だとすれば宅地の需要が膨らむに違いない・・・・・・。
銀蔵の予測は当たった。昭和三十九年―東京オリンピックの年―、大阪府が泉北ニュータウンの建設を発表したのである。
地価は高騰した。
是川が手配していた土地は、五倍になったという。
けれど、莫大な利益を手にしながら、その心は晴れなかった。
・・・・・・自分は、相場師ではないか。土地の投機で儲けることは、本意ではない。
北浜に毎日通い、下値を眺めながら、日本セメントの株を少しずつ拾った。