脱グローバル論 日本の未来のつくりかた
第1回 グローバル社会VS. 国民国家のゆくえ その3

内田樹 中島岳志 平松邦夫 イケダハヤト 小田嶋隆 高木新平 平川克美

平川 先日、小田嶋さんのテレビ番組にゲストで呼んでもらって、その時にツイッターとかについて─ITリテラシーっていうんですかね─それについて話した時に、僕が比喩として言ったのは、速い車に乗ると急に性格が変わるやつがいるでしょ。つまり、車の性能を自分の性能と勘違いするやつ。コンピュータがもたらす情報というのは、ただ機械がやってるんだけど、自分の能力だっていうふうに勘違いして、それを使いこなせることがITリテラシーだと勘違いしてるやつがいる、と。あれはだいたいアメリカで作られたものですから、ロクなもんじゃないと僕は思ってるんですけれども(笑)。新しいものはだいたいロクなもんじゃない。そう思った方がいいと思ってるんですよ。

 たとえば手書きであれば、字が汚いとか上手いとか、いろんなやつがいて、そこにその人の個性が現れるんだけど、全員がワードで書いてプリンターで印刷すれば同じ文字が出てくるわけです。そういう標準化のツールなんですよ、あれは。で、ITリテラシーなんてのは、つまりそれぐらいのもんだということを知りつつ、ああいうものを使うことがリテラシーだと僕は思ってるんですね。ネット上の新しいサービスを使って、これは素晴らしいんだとか、友達が1万人できたなんていうのは、まあ1万分の1に薄まった付き合いしかできてないということなんだけど、その辺の勘違いがあるような気がする。

 それから、今日の話の中でちょっと引っかかったんだけど、世代論的な話が必ず出てくるでしょう。さっきの大澤真幸氏の話もそうなんだけど、ちょっと違うなあと、僕は思ってるんですよ。アドレッセンス(青春期)というのはだいたいどんな時代でも同じようなもんでね、やっぱりロクなもんじゃないですよ。僕自身も若い時はほんとにね、今考えたら冷や汗が出るぐらい嫌なやつ……今も嫌なやつなんですが(笑)、昔からそうだったんですよ。

 そういったアドレッセンスをどうやって抜け出して、大人になっていくかというのは、普遍的なテーマなんですよね。で、人間の普遍的なテーマっていうのは、日本で言うなら、戦前も明治も、もっと前の江戸時代も、今とそんなに変わらないんですよ、実は。それをなんか、ものすごく変わったかのように、「今の若いやつらはどうなった」とか言うのは、ちょっと違うと思う。普遍的なテーマは今もやっぱりあるので、逆に言うと、普遍的なテーマが今見えなくなっていることが問題なんですよ。

 今の若い人たちは、われわれの時とはちょっと違う形で、いろんな問題を抱えているんだけど、その普遍的な部分は同じなんですよ。アドレッセンスというのは、すごく疎隔化に悩まされて、明日はお先真っ暗で、希望があるなんて言えないんだよね。僕らの時だってお先真っ暗でね、どの枝ぶりが首吊りにいいかなんて考えてたんですよ。だからむしろ、そういう変わらないもの、普遍的に存在し続けている問題というものをね、もうちょっと考えないといけないような気がします。

平松 ありがとうございます。まとめに近い形のコメントをいただきました。では続いて中島さん、いかがでしょう。ご自身のまとめとして。