脱グローバル論 日本の未来のつくりかた
第1回 グローバル社会VS. 国民国家のゆくえ その3

内田樹 中島岳志 平松邦夫 イケダハヤト 小田嶋隆 高木新平 平川克美

 本来の国民国家的な発想に立てば、若い同胞たちの雇用をどう確保するか、どうやって彼らの市民的成熟を支援するかという話を教育行政はまずするはずなんですけれど、そんなことは一行も書かれていない。でも、それが本来のナショナリズムだと僕は思う。韓国の先生たちも僕と同じで、本来の意味でのナショナリストなんです。だから、子供たちが経済競争に巻き込まれて、外形的な能力で格付けされることに不安を抱いている。そんなことをしていたら、次世代の韓国を支える成熟した市民が育たないと危機感を持っていました。それぞれの国の若い同胞の成長をどう支援するかで悩むという点で、日韓のナショナリスト同士でそれこそボーダーレスでつながっていける気がしました。

 文科省の「英語が使える日本人」の行動計画を読んでると、そこには経済競争しかない。国際的な経済競争で中国や韓国や台湾に勝たなきゃいけない。それだけが書いてある。周りの国は全部敵だ、と。経済競争における仮想敵なんだ、と。でも、それはいくらなんでも一面的過ぎるのではないかと僕は思います。

 僕ら一般の国民も、竹島問題とか尖閣諸島問題とか、他の国民国家と絶えざる敵対関係にあるというふうに考える。そのために愛国心でのぼせた人がすぐに「売国奴」とか「非国民」とか口走るけれど、ナショナリズムというのは、ほんとうはそういうものじゃないと思う。

 本来の愛国やナショナリズムというのは、自分たちの共同体の成員を、同じ土地に住んで、同じ言葉を話し、同じ生活文化を共有しているというだけの理由で、とりあえず抱きしめたくなる、そういう親密さのことだと思うんです。自分自身と同じくらいたいせつな、自分の分身たちと共同体を作っている。そういう幻想がナショナリズムだと思う。そういう集団がいくつもあって、つまり無数の国民国家に分散している方が、世界の70億人が単一の集団を形成していて、単一の言語を語り、単一の宗教を信じ、単一の価値観を共有するよりも、たぶん人間は幸福だろうという判断があって、ナショナリズムというのは発明されたんだと僕は思っています。

「社会の役に立ちたい」若者、急増中

平松 教育者の立場からのお話をちょっと中島さんにお聞きします。私たちは今こんな話をしてますけれど、じゃあ若い人たちの間でほんとうに閉塞感というものを感じている人が多いのか。いやそれとも、若い人は若い人なりに、物質的には豊かな現在を楽しんでいますよという感じなのか。メディアでは「出口が見えない」とばかり言われてますが、中島さんは具体的に肌で感じるようなことはありますか。

中島 これについてはいろんな人が議論してますが、若者にアンケートで「あなたは今、幸福ですか?」と聞くと、「幸福だ」と答える人がかつてより多いというのは、よく言われてますよね。で、それをどういうふうに見るかですが、社会学者の大澤真幸さんが非常にうまく分析しています。かつての、70年代ぐらいまでの若者にとって、未来というのは輝けるものとして存在した、と。そうすると、今ある自分の現実に対して、「俺にはもっと幸福がまだ先にあるんだ」と思えた。だから今の自分はまだまだ幸福ではない、と言っていた。しかし、今の若者には先が見えない。輝ける未来や、今よりもよい自分というビジョンが描けない。あるいは欠落している。だったら、今の状態を幸せだと言っておかないと……と考えてしまう。そういうギャップがあるんじゃないかと大澤さんは言っておられたんですけれども。おそらく、そういう問題はあるだろうとは思いますね。